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元治元年3月27日(新暦では1864年5月2日)は、「天狗党 筑波山挙兵」の日。
「慶応4年(明治元年)~」 ※全て旧暦表示。※注意書・覚書は下記へ移動しました。
「市川勢(諸生派)」「尊攘鎮派」「本圀寺党」「天狗党その後」「新選組」
◎慶応3年までの年表・・「戊辰前夜」
1868 慶応4年(明治元年)
1月 3日 「鳥羽・伏見の戦い」(「戊辰戦争」始まる)
1月 7日 慶喜、松平容保(会津藩主)・定敬(桑名藩主)を伴い、開陽丸で東帰
2月 朝廷から「除奸反正」の勅書を賜り、本圀寺党 江戸藩邸へ
2月12日 慶喜、上野東叡山大慈院にて蟄居
3月 6日 近藤勇率いる甲陽鎮撫隊、勝沼にて敗戦
3月10日 尊攘鎮派 元家老 尾崎為貴、水戸城に入り藩政を奪う
市川三左衛門・佐藤図書等、総勢約500名 水戸脱走 会津へ
3月13日 「江戸開城」西郷隆盛・勝海舟会見
鈴木縫殿・本圀寺党 水戸へ向かう
3月14日 「五箇条のご誓文」
3月17日 市川勢、会津藩勢至堂峠 会津藩関所→返事を待つ為、府中藩の長沼陣屋へ。
会津藩からの返答は入城拒否。領内通過は許可、会津藩 鈴木丹下の同行を得て越後方面へ
3月20日 会津へ向かった市川勢を追って追討軍が出発(陣将:鈴木縫殿)
3月21日 水戸藩主徳川慶篤 水戸着
3月26日 白河へ到着、会津藩の協力は得られず 市川勢はすでに越後方面へ
その後追討軍は、兵備を増強して出直すこととし、帰藩を決する
4月 2日 新選組、流山に着陣
4月 3日 西軍(香川敬三、有馬藤太等)、流山に来る
夜、大久保大和(近藤勇) 出頭
4月 5日 水戸藩主 慶篤 病死
4月 6日 市川勢追討軍は棚倉をへて小妻(里見村)に宿陣、藩主慶篤の危篤の報をうける
慶篤病死のため追討は一時中断
4月11日 新政府軍、江戸城へ
4月15日 徳川慶喜 水戸・藩校弘道館へ 蟄居
4月20日 鈴木縫殿・市川勢追討軍約1000名、会津へ
4月21日 東征大総督熾仁親王、江戸城入城(「江戸無血開城」完了)
4月25日 近藤勇、板橋の刑場にて斬首
4月28日 朝廷から「除奸反正」の勅命を賜り、武田金次郎・天狗党約130名 江戸着 諸生派を粛清
閏4月 市川勢 新潟へ
新政府軍の間者 富山弥兵衛 市川勢伊藤隊に殺される
富山弥兵衛・・元高台寺党、近藤勇襲撃メンバー
閏4月20日~7月14日 「白河口の戦い」(「会津戦争」始まる)
閏4月27日 柏崎にて 桑名藩・会津藩・市川勢 vs 新政府軍
以後 戦闘を繰り返す
5月 2日 小千谷会談決裂により、「北越戦争」始まる
5月 3日 奥羽列藩同盟成立
5月15日 彰義隊 上野にて討伐される
5月24日 徳川家 駿河に封じられる
5月28日 武田金次郎・天狗党 水戸着 諸生派を粛清
5月30日 沖田総司 千駄ヶ谷にて病死
7月14日 「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」
7月28日 武田金次郎・市川勢第二次追討軍約1000名が水戸を出発(陣将:山口正定)
7月29日 「二本松の戦い」
8月中旬 市川勢、会津藩 佐川官兵衛に願い出て会津藩傘下となる
戦闘を繰り返しつつ会津を目指す → 会津藩領津川へ到着
8月17日 市川勢追討軍、官軍への編入と市川勢討伐を願い出て許可される
8月20日 市川勢追討軍 笠間→宇都宮→高崎→軽井沢→野尻をへて、越後高田へ
市川勢、会津若松城城下へ
8月21日 「母成峠の戦い」
8月23日 新政府軍(官軍)、会津若松城城下に突入
8月27日 明治天皇 即位
9月 8日 元号を明治に改元 「慶応4年をもって明治元年とする」
市川勢追討軍、会津へ
9月16日 追討軍は市川勢が会津にいたことを確認するが捕捉出来ず
9月22日 会津藩降伏(「会津戦争」終わる)
9月25日 市川勢 旧幕府兵、長岡藩兵等と共に水戸に向かう
9月27日 「片府田の戦い」大田原藩兵・彦根藩兵などの軍勢と交戦 戦死者6名
「佐良土の戦い」 黒羽藩兵と交戦 戦死者11名
9月29日 「弘道館戦争」 市川勢他 水戸着 弘道館に立てこもり戦闘
10月 3日 市川勢他約190名 敗走 霞ヶ浦⇒利根川と下り、銚子を目指す 麻生藩は岸から大砲を撃ち掛けるが、夜陰により見失う
10月 4日 市川勢、銚子にて小見川藩兵と高崎藩兵の攻撃を受け敗走
(旧幕府軍99名、長岡藩士11名は降伏)
10月 6日 市川勢、八日市場にて水戸藩天狗党軍の追撃を受ける
「松山戦争」 朝比奈弥太郎以下戦死、処刑 市川勢(諸生党)は壊滅
市川三左衛門は逃亡し、東京に潜伏
10月13日 「東京奠都」 明治天皇、東京行幸
10月21日 「箱館戦争」始まる
10月26日 旧幕府軍、五稜郭を占拠
11月 3日 パリ万国博覧会後、幕府代表としてヨーロッパ歴訪、パリ留学をしていた徳川昭武 帰国
1869 明治2年
徳川昭武 水戸藩主に就任
2月26日 市川三左衛門、天狗党に捕えられる
3月25日 「宮古湾海戦」
4月 3日 市川三左衛門、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処される
5月11日 土方歳三、箱館・一本木関門にて戦死
5月18日 榎本武揚ら降伏(「鳥羽・伏見の戦い」~「箱館戦争」まで続いた「戊辰戦争」終わる)
6月17日 「版籍奉還」
水戸藩主 徳川昭武 水戸藩知事へ。
時代が変わる為とはいえ、日本中が戦場となり、日本人同士が戦い、尊い命が幾千となくなりました。しかしながら、天狗党・諸生党については「水戸(藩)は内戦」と捉えられ、幕末や明治維新に記録されることはなかなかありません。
水戸藩には、徳川親藩として「尊王敬幕」の思想があり、また宮家の親族でもありました。個々としては、藩校や郷校で武士や郷士、神官、庶民までもが水戸学を学び、それぞれの思いも強く、幕末には回天の志を持って事を成そうとしました。
しかしながらその思想から、幕府にも、ましてや朝廷にも直接の刃を向ける事は無く、その強い意志から、藩内の対峙する派閥同士の戦いは長引く程に復讐心を生み、お互いの大将を処刑するまで止むことがありませんでした。
梅の季節、桜の季節。
誠実に、そして無残に散っていった彼等に、思いを馳せて頂ければ幸い。
武田耕雲斎 辞世の句
討つもはた 討たれるもはた 哀れなり 同じ日本の 乱れとおもえば
市川三左衛門 辞世の句
君がため 捨つる命は 惜しまねど 忠が不忠に なるぞ悲しき
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◎注意書・覚書
「市川勢(諸生派)」「尊攘鎮派」「本圀寺党」「天狗党その後」「新選組」
「本圀寺党」・・将軍後見職 一橋慶喜の警護等を務めた水戸藩士約300名。徳川家茂が上洛した折に、慶喜について上洛し、そのまま京に留まる。
「天狗党その後」・・敦賀で処刑を免れ、謹慎状態にあった武田耕雲斎の孫、金次郎ほか。
※水戸藩に関係する出来事を、以上のように色分けしています。(新選組は、初代筆頭局長 芹澤鴨から引き続き記載)
※流山に来た「西軍」は新政府軍の一部ですが、江戸城に来たものとは違う為、この表記にしました。
※会津戦争・函館戦争へは新選組も参加していますが、旧幕府軍へ合流していた為、色分けはしていません。
※市川勢追討軍に関して、訂正・加筆。「茨城県立歴史館」様にお尋ねし、ご回答を頂きました。(H27,4,6)
※慶応4年3月17日の件、修整しました。
※解り辛いので訂正します。、「尊攘鎮派」「本圀寺党」 → 「尊攘鎮派」「本圀寺党」
※4月21日 東征大総督熾仁親王、江戸城入城(「江戸無血開城」完了)を追加。
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