「天狗党関係書籍」に続いて、歴史バージョン。
キーワード的に人物や事件を、私なりに書き出してみます。
本当に(私なりに)なので、足りない部分や間違いあるかもしれません。ご興味持たれた方は、他の方法も使って照らし合わせて頂ければと思います。
「これ違う」部分がありましたら、ご指摘頂ければ幸いです。
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○水戸藩と天狗党(天狗派=改革派)主要な人物について
< 水戸藩 >
「尊王敬幕(そんのうけいばく)」
御三家と呼ばれる徳川家親藩。水戸黄門で有名な光圀公は第2代藩主です。尊王主義は「朝廷(天皇)を尊ぶ」思想。幕府は朝廷の第一の家臣として仕える立場です。特に水戸藩では「水戸学」と呼ばれる学問へと発展して行きました。また「敬幕」とは「幕府を敬う」という意味です。
第9代水戸藩藩主 徳川斉昭(なりあき・烈公) ・・知識・技術に長け、藩主でありながら次々と斬新な装置・設備を開発しました。藩政改革にも着手。藩校「弘道館」や「偕楽園」を整え、幕内では海防を唱えました。
藤田東湖(ふじたとうこ) ・・第9代藩主擁立の際、斉昭公についた改革派の中心人物。斉昭公の信任厚く、戸田忠太夫 と共に「水戸の両田」と称されました。安政の大地震の際に圧死。
第10代水戸藩藩主 徳川慶篤(よしあつ・順公) ・・斉昭公の嫡男。藩主となってからは、改革派→保守門閥派→改革派と信任を変え、混乱を招きました。どっちつかずの態度で「よかろう様」と呼ばれ、保守門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)の内乱を収めることは出来ませんでした。
< 幕府 >
井伊直弼(いいなおすけ) ・・第15代彦根藩藩主。譜代大名筆頭。大老となり外国からの数々の難題に取り組みました。しかし朝廷からの許可の無いままの条約制定や横浜港開港、安政の大獄等により尊王攘夷派に恨みをかう結果となり、 桜田門外の変」にて水戸脱藩士・薩摩藩士に暗殺されました。
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ) ・・後に最後の将軍となった徳川慶喜は、水戸藩藩主慶篤公の実弟。御三卿のひとつ一橋家へ養子となっていました。天狗党西上勢(てんぐとうさいじょうぜい)は慶喜公を頼って京を目指した(これを西上と言います)にも関わらず、天狗党討伐軍を率いました。
田沼意尊(たぬまおきたか) ・・幕府の若年寄・玄蕃頭(げんばのかみ)。「下妻の戦い」で敗れて以来、執拗に天狗党を付け狙います。水戸では対天狗党の諸生党側に付き、松平頼徳公・大発勢の悲劇を招きました。敦賀(つるが)で天狗党が降伏するとその処分を任され、復讐に燃える彦根藩に処刑させてしまいます。
< 諸生党 >
保守門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)の確執
第9代藩主擁立の際、保守門閥派は御三卿のひとつ清水家からの養子縁組(持参金への期待と、第8代藩主正室の弟であり、懐柔が出来る)を進めていましたが、改革派である下級武士が大挙して押し寄せ、斉昭公(第8代藩主の弟)が正統であると抗議、第8代藩主の遺書「朶雲片々(だんうんへんぺん)」を突きつけられ断念。
以来、斉昭公に取り立てられる改革派の下級武士を「天狗」と呼び嫌います。保守門閥派は家柄も良い上級武士であり、既得権益を離したくない。また改革派の足元をすくおうとした結城虎寿の処刑は保守門閥派の恨みをかう事になり、対立を深めて行きます。
結城虎寿(ゆうきとらじゅ) ・・斉昭公の藩政改革後も水戸藩政中央にいた唯一の保守門閥派。保守門閥派の復権を画作し、結果、斉昭公の謹慎をも招きました。後に斉昭公が許されると、斉昭公暗殺未遂の罪で藩医と共に処刑されました。
市川三左衛門(いちかわさんざえもん) ・・松平頼徳公率いる大発勢を拒絶し、水戸城を占拠。田沼意尊率いる幕府軍とともに那珂湊(なかみなと)にて大発勢・天狗党と戦いました。その後は次回up< 敦賀以後 >の通り。
< 天狗党 >
詳しくは次回up。
武田耕雲斎(たけだこううんさい) ・・挙兵は「時期尚早」と反対していましたが、後に天狗党西上勢の総大将となり京を目指します。行く道々で見られるのは義理堅く真面目な人柄。
藤田小四郎(ふじたこしろう) ・・藤田東湖の遺児。人望を集め筑波山にて挙兵。年若いため、田丸稲之衛門、武田耕雲斎等の力を借ります。
田丸稲之衛門(たまるいなのえもん) ・・水戸町奉行。年若い藤田小四郎に代わり筑波山挙兵の際の総大将となりました。
田中愿蔵(たなかげんぞう) ・・激派中の激派。各地で「愿蔵火事」等。あくまでも「横浜港閉鎖」を主張し、倒幕さえも視野に入れていたと言います。天狗党から追放され、最期は塙村にて処刑されました。
武田金次郎(たけだきんじろう) ・・父・武田彦衛門と共に参加。祖父は武田耕雲斎。天狗党西上勢投降時は若年の為、処刑を免れます。明治になると天皇より勅諚を頂き、諸生党に復讐を果たして行きます。
< 大発勢(たいはつぜい・だいはつぜい) >
松平頼徳(まつだいらよりのり) ・・水戸藩の支藩・宍戸藩の藩主。幕府より水戸内乱の鎮撫を命じられた水戸藩主慶篤公の名代(みょうだい)として、水戸に赴きます。天狗党とは、それぞれが対諸生党の立場ですが、諸生党側についた幕府軍と戦う事は本意ではなく、そのため甘言に乗せられ、切腹という最期を迎えます。大発勢も投降後、処刑されてしまいます。
※次回「水戸藩と天狗党 その2」・・事件、事柄について
※「武田金次郎」追加しました。納得出来るほど詳しくはありませんが、解る範囲で。
※「市川三左衛門」の説明の中で「諸生党を名乗りました」を削除。「自分達から名乗った(名付けた)」という文面は無かったように思うので・・。確認出来次第に書き込み等致します。
※大発勢(読み)について・・漢字がすんなり出て来るのは「だいはつぜい」。だけど、県内の年配の先生は「たいはつぜい」と発音します。茨城では「ほとんど」を「ほどんと」と言ったりしますし、もしかしたら茨城訛り? と判断して「だいはつぜい」を読みとしていましたが、水戸藩の事件なので、「たいはつぜい」が正統なのかもしれない。そういう訳で、読みを併記致します。確認したいけど確認出来ない事のひとつです。(H26,6,1記)
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