毎回、突然の歴史バージョン。しばし、お付き合い下さい。
天狗党が歩いた中山道。「和田宿」「下諏訪」に行って来ました。
佐久南インターから国道142号線を目指すと、佐久市望月を通り、概ね中山道と同じ道筋になります。
一橋慶喜公を頼りに、天狗党西上勢が京を目指し歩いた道のひとつ。
元治元年(1864年)
11月16日 「下仁田の戦い」→本宿
11月17日 本宿→平賀宿
11月18日 平賀宿→望月宿
11月19日 望月宿→和田宿
信州諸藩へは幕府より「水戸浪士(天狗党西上勢)を討伐せよ」とのお達しがあり、「下仁田の戦い」の後、松本藩・諏訪高島藩は密偵を放ち西上勢の動向をうかがっていました。
和田宿に到着した天狗党西上勢は、武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・藤田小四郎等が本陣長井十左衛門方へ、武田魁介・桶山三之丞等が脇本陣翠川与五兵衛方へ、その他も旅籠へ分宿としました。
下仁田の戦いでの傷や行軍の疲れを、ほんのつかの間癒した天狗党ですが、松本藩勢は着々と東餅屋に本陣を構えようとしていました。天狗党の方でも、その状況は掴んでいたようです。(しかし東餅屋に武田耕雲斎からの書状を届けようとするも、松本藩は樋橋村に移動した後で、使いに出た和田宿役人はむなしく戻って来たという事です)
「和田宿本陣」
詳しくは「中山道和田宿公式サイト」へ。
文久元年(1861年)3月に宿場の大半を火災で焼失したものの、11月の皇女和宮降嫁の宿泊地とされていた為、幕府の拝借金を得て宿場の復興が行われました。写真の襖引き手は、復興当時からのもの。古い引き手は2ヶ所残し、これと似た物を探して新しい引き手に変えられています。
壁の違いにご注目。小さい写真真ん中、手前から土壁・漆喰・雲母の入った「化粧壁」となり、奥に行く程上等なお部屋になります。小さい写真一番左は「控えの間」(クリックで大きく出来ます)
天狗党西上勢は「居住棟」へ宿泊。和宮様がお泊りになられた「座敷棟」へは絶対に足を踏み入れる事は無かったのだそうです。
明治維新で本陣の機能を終え大火での借金もあった為、「座敷棟」は丸子町龍願寺へ売却されたのだそうです。ここは「居住棟」と「座敷棟」を繋いでいた廊下。
こちらは本陣にお客様が宿泊している間の居住スペース。2階にあります。格子のある窓からは、風対策の石の乗った屋根が間近に見えます。瓦ではなく板葺きですね。
高貴なお姫様のどこまでも続くお行列や武装した大集団に、ドキドキしながらここで息を潜めていたのかもしれません。
こちらは1階の居住スペース。畳には当主のみが座るのだそうです。留守の時には次代の当主(長男)が座ります。
現在は資料館になっていて、今回は皇女和宮降嫁についての史料が展示されていました。
資料館になる前は、役場・農協事務所として昭和59年まで使用されていたのだそうです。
「宿」は泊る側が食事用意、「泊」は本陣側が食事用意をするのだそうです。「休」は休憩のみ。
中山道では、誰でも使える水飲み場を度々見掛けました。
旅人にとっては命の水。今でも中山道を歩く皆様の咽喉を潤している事でしょう。
暑い日等は、学校帰りの子供達も冷たい水を飲んで行くそうです。
「羽田野」(和田宿農家レストランかあちゃん家)
明和二年(1761年)以降、同族の名主退役により明治維新までを務めた定名主羽野家の役宅。本陣の向かいにあります。
「和田宿本陣」から「歴史の道資料館かわちや」の通り。宿場町の赴きがそのまま残っています。
格子の入った窓からは、こんな風に見えていたのですね。
「かわちや」の後ろには「黒曜石石器資料館」 マークがパーマン
「かわちや」から「本陣」に向かい、行き過ぎると「脇本陣」があります。
こちらは個人宅になりますので公開はしていません。
ちなみに「新選組」の主だったメンバーが参加した「浪士組」も、中山道を歩き京へ上りました。
文久三年(1863年)
2月 8日 江戸小石川伝通院 発
2月13日 長久保宿
2月14日 下諏訪宿
2月23日 京都壬生村着
長久保宿から下諏訪宿まで約30km、中山道では一番の難所をこのペースで!
「気遣い無用。和宮様がお泊りになった和田宿で、荒くれた浪士達が騒ぎを起してはかなわん」と先を急がせたのかも、という想像も出来ますね。
芹澤鴨(=下村継次と仮定して)は牢屋から解放されて1ヶ月程しか経っていませんが・・。
「新選組!茨城玉造隊」HP
新選組!茨城玉造隊はH25,11,16~H26,8,8まで、「新選組誕生150周年記念事業」として、新選組(浪士組)の面々が京に上った中山道を歩きました。
現在も、参加出来なかった区間を制覇しようとトライしているメンバー達がいます。
「あやめの里便り」での記事
ぽんたさん、最近、和田宿へ行かれたんですね。
私は、玉造隊で2回、和田宿まで歩き、和田宿本陣も2回見学しました。旧中山道の道中でも、和田宿本陣は保存状態が良いですね。和宮の部屋が売却されなければ、もっと良かったのに。
旧中山道歩き旅、江戸日本橋から妻籠宿までは全部歩きました。残りは、妻籠宿から中津川宿、伏見宿から加納宿までの48・5キロになりました。
和田宿、浪士塚には是非行きたかったので、今回行く事が出来て本当に良かったです。
歩いて行ったら、道々の風景もゆっくり見られて良いでしょうね・・。
かくさんは二回も歩いたのですね!
和宮様がお泊りになったお部屋の売却は残念ですが、丸子町龍願寺には残っているようなので行けたら良いな。
かくさんはあと2、3回で中山道踏破でしょうか?
その時は例会でお祝いしましょうね!