元治元年(1864年)
11月15日 吉井を出発し、下仁田に舎営 行程六里(晴天) 九百二十五名
夕刻に到着した天狗党西上勢は、桜井弥五兵衛宅を本陣とし、村内に分宿。
要所(小坂坂峠、梅沢峠、白山峠、大崩など)へ見張り。十七名ほどの巡回兵が夜通し警戒。高崎藩の密偵を捕える。
頂いたパンフレットの地図を見ると、天狗党が通って来た「小坂坂峠」は「専修院本誓寺」脇の旧道。思い出してみると、細い道が確かにありました。
高崎藩勢(第一番手百九名、第二番手九十二名)は、「梅沢峠」から「下小坂」へ。国道254号沿いに緑色の大きな丸いタンクがありますが、その脇の道が旧道です。「梅沢峠」入り口にて、高崎藩勢での最初の戦死者。
高崎勢、名主の里見治兵衛宅の前に本陣。
11月16日 未明より高崎藩兵と下仁田西方小坂村に於て戦闘、午前十時頃に終わる。
4時~6時頃 「岩下の激戦」
天狗党は高崎藩本陣に対して、三面奇襲攻撃をかける。
本隊は街道(現在の国道254号の下にある旧道「西原間道」)を本陣目掛けて進撃し、一隊は伊勢山を尾根づたいに進み、本陣側面の山上(現在の「ふるさとセンター」)に出て小幡藩を名乗り、頭上より射撃と書いてあります。(昭和17年まで「狙い松」と呼ばれた松があったのだそうです)もう一隊は川向こうから狙撃。
劣勢になり高崎藩は中小坂方面へ。「杉の木峠」「梅沢峠」を通り退却しましたが、一部は追撃してきた水戸浪士と白兵戦となりました。
8時~10時 「安導寺の激戦」
高崎藩士20名、追撃してきた水戸浪士30名。
「下仁田戦争」での戦死者は天狗勢4名。
野村丑之介以外の3名は「安導寺の激戦」で戦死しています。
それ以外にも深手を負った者が多数あり、内山峠越えで絶命した者も多かったとも書かれています。
高崎藩勢の戦死者36名。
捕えられた者は青岩河原において斬られました。
高崎藩士の戦死場所と状況の箇所をみると、7名のようです。
始めに捕えられた密偵を含めほとんどは斬首、ただひとり従軍医師・中村俊達は切腹と記載され「武士にも及ばぬ見事さ」と書かれています。
分捕砲三門、小銃五十挺、甲冑六十領、味方(天狗党)勝利。諸事整理し午後二時頃出発。本宿舎営、行程二里(晴天)
高崎藩の戦死者が葬られたのは、やはり「専修院本誓寺」。(高崎からは17日、戦死者の家族がご遺体を引き取りに来たのだそうです)
また、「勘定方三人が残って後始末をしていった」と書いてありますので、某かの支払いをして行ったのかもしれません。
念のためと思い、室伏勇氏著「写真紀行 天狗党追録」も開いてみました。
捕えられた高崎藩兵は10名。青岩河原では武士は切腹、人夫などは斬首とあったのが大きな違い。「岩下の激戦」高崎勢は、伊勢山にいる軍勢は小幡藩が約束通り助太刀に来てくれたものと勘違いしたが、と書いてあります。私も旗まで用意出来るとは思えないので、勘違いが本当ではないかと。はてさて。豊富な写真とともに詳しい内容なので、是非1度ご覧頂きたい御本です。
今回「ふるさとセンター」で頂いた「下仁田戦争始末記」は、戦場となった下仁田でのお話だけに、戦死した御一人おひとりの状況が書かれています。本当に大変な激戦だったのだと思います。
天狗勢については、それまでの経緯(多少の?あり)・その後の顛末にまで触れられ、興味を持って下さっている事に感謝。
そして、お気付きでしょうか。
今日は11月16日。「下仁田戦争」と同じ日です。(西暦に直せば日付はズレますが)
そして潮来ではただいま郷土史研究会で歴史講座を開催中。3回目の今日は「筑波挙兵と天狗党の西上」という内容でした。
遠く京の慶喜公を頼って西上する天狗勢のうち、実に200名近くが潮来・行方を故郷としています。偶然とはいえ、繫がりを感じずにはいられません。
※青字部分は、下仁田町教育委員会「下仁田戦争始末記」から、ほぼそのまま使わせて頂いた文章です。ありがとうございました。
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