あやめの里便り

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「下仁田」を歩く

2012-11-14 17:53:09 | 潮来・茨城の歴史

ものすごくお久しぶりですが、「潮来・茨城の歴史」天狗党西上についてです。

天狗党と高崎藩の激戦地「下仁田」へ行って来ました。

 

まず目印にしていた「ふるさとセンター」へ。 
1階奥に「下仁田戦争」のコーナーがあります。

天狗党約1000名に対して、高崎藩兵200名余。
戦死者は天狗党4名、高崎藩36名。
朝4時から10時まで続いた戦いは天狗党勝利で終わりました。

(高崎藩側の人数は、第三番手130名が到着していなかった為、第一番手・第二番手合わせた200名余に書き換えました。すみません、「高崎藩士戦死碑」の説明看板でもそう書いてありますね。)

史料はコピーした物も多かったですが、これだけの物を遺そうとして下さった事に感謝。
「下仁田戦争始末記」という冊子を頂きましたが、それぞれの壮絶な戦いぶり、また亡くなった時の様子が書かれていて、なんとも胸がつまります。 

 

  敷地内には水戸から贈られた梅の木や、記念碑などがひっそりとあります。
遠く離れた地でみる「水戸」という文字。
なんと懐かしいことでしょう。

 

 


町を見下ろす高台にある「ふるさとセンター」からは小さな階段があり、下りきると「高崎藩士戦死碑」があります。
題字は勝海舟。



左側に振り返ると白壁の蔵があり、ここが「高崎藩本陣」となった「里見家」
ここには天狗党が3方から攻撃をかけたそうで、蔵には弾痕があったところに塗り込めた後が解ります。

文化センターを目印に行くと、「天狗党本陣」となった「桜井家」があります。
大正時代の火事で消失後再建されたものですが、町なかの立派な建物です。

斜め向かいには無料の町営駐車場があるので、便利。

少し場所を変えて、霊山寺の後ろの「本誓寺」。
ここに天狗党の「久保田藤吉・斎藤仲次の墓」があるはず(今回は間違って霊山寺の方のお墓に行ってしまいました)



道沿いの山際公園内にある「義烈千秋の碑」
旧水戸藩士が下仁田警察署長に赴任した際、資金を募集して建立したものだそうです。 


次に向かうのは「野村丑之介の墓」
田丸稲之衛門の小姓で、若干13才で初陣。
高崎藩の槍の名手内藤儀八と遭遇し、右腕を斬りおとされる重症を追いました。足でまといになると、願い出て切腹(首を討たれました・・)

駅の近くにあると聞いていたので、ご近所の方に「ここに行きたくて」と地図を見せると、ほんの先にあるようです。
私が茨城からと言うと、 「茨城から来る人、多いわね」と。

その地区の老人会では、決まった日におまつりをしているのだそうです。
その節はご迷惑もお掛けして、大事にもして頂いて・・とお礼を言って別れました。

道なりに進むと小さな一画に、ありました。
綺麗に、きちんと管理して頂いているのが解るお墓。
「大事にしてもらって良かったね」と手を合わせて来ました。

そこからまっすぐ進むと信号があって、右に折れると先ほどの町営駐車場。
計らずして一番良いコースで回って来たみたいです。短い時間だったけど、下仁田に来れて本当に良かった。


この他にも離れた場所に何ヶ所か点在しています。

・「大曽根繁蔵の墓」(梅沢峠入り口)

・「高崎藩士切腹の場」(かぶら川・青岩河原)

 

天狗党の西上はまだ道半ばにも満たないころ。

いよいよ山深く、雪の難所が待ち受ける事を、天狗党の面々は知らずにいるのですね・・。

 

※詳しくは「潮来・茨城の歴史」のカテゴリーへ。

 


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