あやめの里便り

茨城の演劇、高校演劇情報。茨城県と潮来市近辺の話題。

江戸時代~

2006-11-04 23:58:10 | 潮来・茨城の歴史

先日に引き続き・・後編

江戸時代の潮来
1.水運
東北諸藩から江戸に物資を輸送しようとすると、二つの水運ルートがありました。

まずは潮来まで
 ①奥州方面から太平洋を南下~那珂湊~涸沼~海老沢河岸(荷揚げ)
 =馬で陸送=紅葉(鉾田市)・下吉影(小美玉市)で小船へ~巴川(閘門)
 ~塔ヶ崎・串挽河岸(鉾田市)で高瀬舟 ~北浦~潮来
 ②奥州方面から太平洋を南下~鹿島灘~銚子~利根川~潮来で川舟へ

潮来からは
  常陸利根川~横利根川~佐原~関宿~江戸川

このように江戸に辿り付きました。
後に利根川の流路は変わり「常陸利根川」は支流となった為、奥州船は銚子で積荷を川舟に積み替え、佐原を目指すようになります。

2.遊郭
1679年、潮来の庄屋さんが旅籠屋(船宿)一軒につき、8~9人の飯盛り女を置く事を水戸藩に願い出たのが始まりです。
潮来が一番栄えたのは寛文~元禄のころ。(「風待ち港」は牛堀)
(「水戸光圀」が1661年に2代目水戸藩主となり1700年に西山荘で死去するまでとほぼ重なります)
遊郭を中心に「潮来節」と呼ばれる民謡が唄われ、水運ルートに乗って江戸へ、また流行歌として全国へ広がりました。

3.江戸文人の来遊
松尾芭蕉・・長勝寺境内に句碑あり。
渡辺崋山「潮来名月舟遊図」
式亭三馬「潮来婦誌」
・・・
奥州諸藩の船頭たちだけでなく、「香取」「鹿島」「息栖」東国三社詣・東国からのお伊勢参りコースのいわば遊興客で賑わうようになると、むちゃくちゃ賑わっていたようです。
水戸藩の御用金を献金するに当って、なんでも潮来の商人だけで3分の1を納めていたとか。すげぇ。

4.延方郷校
文化4年(1804年)に「井村松亭(通称「水戸屋先生」)が江戸で塾を開いていた「澤田平格」(加賀藩浪士)を招いて開塾されたのが始まり。
後に藩からも援助を受け、内田山に水戸藩主「徳川斉脩(なりのぶ)」親筆の「至聖先師孔子神位」の位碑を納めた聖堂を建立。延方郷校へと発展しました。
明治10年に廃校となりますが、聖堂は「二十三夜尊」として移築され、「至聖先師孔子神位」の位碑は現在「潮来市立図書館」内の郷土資料室に展示されています。

・・しかし、現地に何も無くなってしまったのは何とももったいない。
儒学・医学を教授する学校として、2000冊近くの蔵書もあったというのに、それも残っていないというのはどういうことだろう??


※「水戸~江戸」
那珂川から①のルートを通り江戸に向かうのですが、利根川を遡る為に風を待ったり、江戸川に乗り換える時に潮の干満を待ったりして、14日~40日の日数を要したそうです。
(距離の割りにかかり過ぎですね?? どこか確認出来る所を探してみます。)


※「閘門」
水面の高さが違う川や水路を繋ぐ為、前後の水門で挟み水量を調節しながら進む。
現在の潮来では「加藤洲」へ観光船で向かうと「閘門」を通る事になります。

※「潮来節」
『潮来出島のまこもの中に、あやめ咲くとはしほらしや』
徳島阿波踊り(よしこの節)・佐渡おけさ・都々逸などのルーツは潮来節と言われています。

※「延方郷校」
芹沢鴨もこの郷校に通ったと言われていますが、確証はありません。
現在「内田山」には「茨城県立潮来高等学校」が建っています。

とりあえず、今日はここまで。
幕末は大変・・。

**↑「芹沢鴨もこの郷校に通いました。」とありますが、(玉造から)という部分を削除致します。

平間重助のご子孫に確認した所、潮来(延方?)で下宿のようにお世話になって、延方郷校へ通ったのでは、というお話でした。
どこのお宅へお世話になったのかまでは解りませんが、先生か?庄屋か?それともお寺のような所でしょうか?潮来では大火もありましたし、天狗党の被害も受けた所なので、なかなか判明は難しいかもしれません。(2011,9月 記)

**↑「芹澤鴨本家出生説」では、芹澤鴨は少年時代に延方郷校に通ったことになっています。芹澤鴨には他にも「芹澤分家出生説」「北茨城出生説」があり、今後の研究が待たれます。(2017,3月 記)

**1.水運 潮来まで①で、「~塔ヶ崎・串脇河岸(鉾田市)で高瀬舟」としていたのを、「~塔ヶ崎・串挽河岸(鉾田市)で高瀬舟」に変更です。長期に亘り間違いに気付かず申し訳ありませんでした。。(2015,4月 記) 



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