あやめの里便り

茨城の演劇、高校演劇情報。茨城県と潮来市近辺の話題。

古代~

2006-10-31 13:29:16 | 潮来・茨城の歴史
先日は潮来市にてある事業の一環として、講話を伺って来ました。

テーマ 「江戸時代 幕末まで活躍した女性たち」前編

今回は前編と言う事で、古代から江戸時代の初めまで。



1.古代
潮来に縄文時代には人が住み着いていたのは、沢山の貝塚がある事から確かな事ですが、その頃は海岸線はもっと内陸にあり、今では小高い丘(こちらでは「山」と呼ばれています)になっているところにそれらがあります。

時代が進むと、古墳群も山の上に出来ます。
特に大生原にあるもの(「県民の森」の一番奥にあります)は、オフ一族のものであり、この一族はなんと肥後国(現在の熊本)から。

その一族の一人『建貸間命(たてかしまのみこと)』の使命は『東夷征伐』。
その時土着民を「いたく殺した」事から、「板久」の地名(後に「板来」)が付き、また茨で砦を築いた事から「茨城」という地名が付いたのでした。

・・何とも心の痛い話ですが、当時の中央政府は地方に対して「未開で野蛮な人々の住む土地」として、総じて蝦夷(エミシ・毛人)と呼んでいました。
東北地方の海側に勢力を持っていた蝦夷が氾濫を起こした事もあって、東北地方では西暦774年~811年まで戦いが続いたそうで、中でも、征夷大将軍「坂上田村麻呂」と、成敗された「悪路王」は有名な話ですね。

茨城という地名について書かれている『常陸風土記』は西暦713年に編纂されたという、古のお話です。
ちなみに、その大生原には巫女舞神事が有名な「大生神社」があります。
もちろん『オフ一族』縁の神社なのですが、その神社建立の頃「鹿島神宮」は既に在ったのでは、という事で、その古さに改めてびっくりです!
「鹿島神宮」のシメナワを巻かれている杉の大木は、もしかして『縄文杉』なのでしょうか・・。(←後日「樹齢1200年以上」という記述を見つけました)

※古代の茨城
ほとんどが『常陸国』(「ひたち」の地名の由来は諸説あり)
他に『陸奥国』(白河郡「依上の里」)
  『下総国』(相馬郡・猿島郡・結城郡・岡田郡)

常陸国には11の郡(こおり・評)があって、16の里がありました。(←数は資料によって変わると思います)
国府は現在の石岡市。
平城京から遥々「東海道」が延びていました。
その石岡から、鹿島神宮に向かう道があり、板来にも『駅家(うまや)』がありました。
馬を乗り換えたり、宿泊したりしたところで、場所は現在の「長勝寺」のあたりだそうです。


2.中世
荘園と呼ばれるものが造られるようになって、この地方を治めたのは『常陸大掾(だいじょう)』でした。
この方、もともと平氏なのですが、源平合戦では源氏方について戦っています。
なので安泰。『行方氏』として小高・島崎・麻生・玉造の地に城があり。
また、先の「長勝寺」は西暦1185年、源頼朝によって建立されています。

3.~戦国時代
「資料がない」とのことで、詳しいことが解っていないようです。
ただ佐竹氏が(島崎城の)島崎氏を滅ぼし、そのまま佐竹氏の統治が続きます。
何でも、佐竹氏は島崎氏が縁組をした先だったそうで・・。
(あまりに不憫と思ったのか『島崎盛衰記』という本が書かれているそうで、いつか読んでみたいと思っています)

4.江戸時代
とうとう水戸藩の時代です!
潮来は辻・延方・八代・牛堀・富田・矢幡(やばた)とともに、水戸藩の南領として治められました。
「潮来」という地名は遊びに来ていた『水戸光圀』が鹿島の「潮宮(いたのみや)」に因んで名付けたもの。

郡奉行は鉾田。
それぞれの地には「大山守」という役職があり、潮来では窪谷・関戸・宮本・石田といった庄屋さんがこれに当たったそうです。

また家康の利根川東遷大工事に伴い(と私は解釈しているのですが)、土砂が堆積した洲が多くでき、新田開発が進みました。
そこには関ヶ原の合戦に破れた落人も住み着いたということですが・・。

豊かな地域の帰属(領土争い)が問題になるのは、今も昔も変わらなかったようで、「延方相撲」もそのひとつです。
ただ、相撲で決着をつけたのではなく、幕府から「徳島は水戸藩領」とお達しがあった喜びで相撲を神社に奉納したのが始まりだそうです。





・・以上なんですが、「女性」はどこに出て来るっちゅうねん(笑)
先生も困ってしまったようで、後編では「茨城で」「茨城出身の」くらいまで範囲を広げて活躍した女性を探してくるらしいです。
でも無理に女性は出てこなくても面白いんだけど。

※先生のお話の他に参考にした書籍。
碧天舎 平野貴司 「海潮の剣(かいちょうのつるぎ)」
茨城県立歴史館「よみがえる古代の茨城」
学研グラフィック百科「にっぽん川紀行・利根川」

※「豊葦原の瑞穂の国」
古事記では「ニニギノミコト」が降り立った豊饒な地として書かれています。
現在では「日本国」そのものを現す言葉として使われています。
文中では、東国の豊かさを表す言葉として使っていたので削除致しました。

※「オフ一族」
「オオウ」としていたものを「オフ」に訂正です。
『大生はら古墳群の被葬者が鹿島神宮と密接な関係のあったオフ氏一族の奥津城であったことは各方面から立証されている。』
潮来市教育委員会 「潮来市の文化財」

他にも何かありましたらご指摘下さい。
また、自分でも「オカシイナ」と思ったら直して行きたいと思います。
歴史は書き方一つ、捉え方一つ、見方一つが難しいですね。精進します。
                                  11.1記









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