↑新杉田駅の位置がおかしい(『磯子の史話』をそのまま掲載しています)
杉田と上笹下地区をつなぐ通称杉田新道は、磯子区の聖天橋交差点を起点として、伊勢原市上北ノ根交差点まで続く神奈川県道22号横浜伊勢原線の一部である。
聖天橋交差点から「ぷらむろーど杉田商店街」に入り、京浜急行の踏切を渡るとその先には長い坂が続いている。丘の頂点は大きな切通しになっているが、ここにはかつてトンネルが掘られていた。しかし大正12年の関東大震災によってそれが崩落してしまった。
そのため長さ100メートル、幅5メートルにわたる大量の土砂が発生したので、それを利用して杉田の海岸を埋め立てることにした。出願したのは杉田村の鈴木祐次郎、間辺仁太郎、間辺延太郎、杉山啓次郎、小泉佐一郎らで、大正14年4月に着工し、聖天橋から市電の杉田終点付近までの海岸、約1万㎡を埋め立てて大正15年8月に完成した。【冒頭の図「磯子の史話」より】
※新杉田駅の位置がおかしい。
旧杉田劇場は、その埋立地に建っていた。
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この図は当時劇場で働いていた片山茂さんが保存していた旧杉田劇場の公図写。国道16号線から海までの間、赤色に塗った部分がその土地である。斜線と着色のため見づらいが、地番は杉田町2148番と書かれている。
神奈川県立公文書館のデジタルアーカイブで公開されている「土地宝典」というのがある。明治期から昭和にかけて、登記所や市町村役場の公図と土地台帳を元に編集し、地番・地目・地籍・地価・所有者名などを記載したものだ。
残念ながら磯子区の土地宝典はいつ発行されたものか不明。ただ、市電の敷設されている道路より海側が大正15年の埋立地なので、昭和初期の状況を描いているものと思われる。
「土地宝典」には上の地図と対照できる所有者リストがついている。このデータとあわせて、現在、法務局で閲覧・入手できる土地台帳を基に、旧杉田劇場が建っていた2184番付近の地主を調べてみた。
2184-1(宅地) 大正15年 内山梅吉
昭和5年 長塚保次
昭和10年 惠川甚三郎
2184-3(新開地) 大正15年 小泉ほか20名
大正15年 内山梅吉
昭和2年 惠川甚三郎
2185-1(宅地) 大正15年 内山梅吉
昭和5年 長塚保次
昭和10年 惠川甚三郎
2185-3(新開地) 大正15年 小泉ほか20名
昭和2年 惠川甚三郎
2206-7(新開地) 大正15年 鈴木祐次郎ほか4名
昭和2年 惠川甚三郎
2206-8(新開地) 大正15年 鈴木祐次郎ほか4名
昭和2年 惠川甚三郎
以上は昔の「土地宝典」と現在の土地台帳の両方に載っている土地(地図の水色部分)。その他、土地台帳では確認できていないが、土地宝典に載っているのがピンク色に塗った土地。それらは下記の地番である。
2186-1(宅地) 長塚保次
2186-2(新開地) 惠川甚三郎
2187-1(宅地) 長塚保次
2187-2(宅地) 長塚保次
2187-5(新開地) 惠川甚三郎
このなかで、小泉ほか20名とか鈴木祐次郎ほか4名というのは、埋め立ての出願をした人たちだ。内山梅吉という人は、中区福富町に喜音満館(キネマ館)、のちの「開港記念電気館」をつくった人物と思われる。『横濱成功名誉鑑』によれば、横浜賑町にも敷島館を監督し、さらに横須賀若松町で電気館建設を計画中とある。そこから類推すると、内山はこの埋立地に劇場を作ろうとしていたのかもしれない。
これら地主のなかで興味深いのは惠川甚三郎だ。『明治大正昭和横濱人名録』によると、中川牛肉店(中区吉田町)とある。中川と言えば戦前の横浜を代表する名物だった。その惠川氏がこの埋立地を入手した目的はなんだったのか。
旧杉田劇場の隣には料亭「丸屋」があった。それを考えると、もしかしたら料亭を作ろうとしていたのではないか、という想像もしたくなる。牛肉をふんだんに使った料亭だ。お客さんは横須賀の海軍を想定していたのか。
結局、この埋立地には劇場も料亭もできず、高田菊弥が経営する東機工という「日本飛行機」の下請け会社ができ、戦後、そこが旧「杉田劇場」となったのである。
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By うめちゃん
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