中原本道から熊野神社参道に入り、京急のガードをくぐった先に、「君津」と名付けられたNTTのケーブルがある。この名称由来については前回の記事に書いた。
そこで早速、磯子文化資源発掘隊の事務局は現地の確認に向かうことに。今日は梅雨明け宣言が出た猛烈に暑い日だ。
ガード下から「君津」ラインに入っていくと、こんな祠が現れた。
昭和30年代の地図に描かれている「中原地蔵堂」のようだ。
祠内に掲示されている由来記を見ると、正式には「中原見守地蔵尊」ということが分かった。そこには、こんなことが書かれている。
「昭和5年、京浜急行の前身湘南電気鉄道が中原の町を南北に走るようになってから、昭和23年までに7名の方が犠牲になられました。この方々の霊を慰め、以後の交通安全を願うため同年9月23日、中原漁業協同組合員一同、磯子中原農業協同組合中原生産班員一同と町内有志272名の寄付金10万円を基に中原4丁目1-22に中原見守地蔵尊が建立され……」
その後、祠の傷みが目立つようになったため、昭和57(1982)年3月、有志の方々の募金を基にお堂を改修したそうだ。由来記の最後には「23年の申し合わせにより毎月14日を当地蔵尊の縁日といたします」と書いてある。
この地蔵尊のすぐ目の前に京急の線路がある。当時はここに踏切があり、7名の方が事故に遭ったようだ。
お地蔵様の右側には墓誌がある。昭和23年9月22日の建立だ。
右側面には童子が二人、童女が一人と、大人だろうか合わせて4人の名が彫られている。
左側面には3人の名が。やはり子供が2人と、もう一人は何と、米軍兵士の名が刻まれている。金沢区富岡第753部隊本部付一等兵 米国人 ジェームズ・アール・テニスマンだ。京急杉田駅裏には米軍の宿泊所があったし、日本飛行機の先には駐留軍施設があったので、そのどちらかの兵隊だったのだろうか。
これは横浜市のホームページに載っている昭和30年代の地形図。京浜急行の線路に沿っている道が「君津」ラインだ。赤で囲った部分に踏切がある。いつまで存在したのかは分からないが、
現在は踏切ではなく跨線橋になっている。
跨線橋から屛風浦方面を眺める。線路がカーブしているため踏切は危険だったのだろう。
反対側、杉田駅方面を眺めると、こちらは一直線だ。
跨線橋を戻って、再び「君津」ラインを歩く。
急坂を登っていくと、こんな庚申塔が現れた。
中原村庚申塔だ。享保12年(1727)の建立である。当時は疫病が流行し、他所から入ってこないように庚申講が行われていたそうだ。
新型コロナが感染拡大している現代でも、効力があることを願って手を合わせていく。
青面金剛が踏みつけているのが悪鬼。その下には三猿。
側面に建立年が彫られている。
すごい急坂だ。汗をかきかき登っていく。
振り返ると杉田の町が見える。
ここまで来ると景色が素晴らしい。だけど先はまだまだある。
社宅跡まではどのくらい坂を登るのか。標高は約45メートルだ。熱中症になるといけないので、今日の探索はここまで。残りは後日。
by うめちゃん
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