黙って読むしかありません。
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堺《さかい》の家では、朝寝も利休には愉《たの》しみのひとつであった。とりわけその日は、まえの夜おそく帰りついたくたびれもあり、晩春の熱量のました太陽が軒のすかし窓を通し、部屋の障子のひと枠《わく》、ひと枠を黄じろく染めるまで、おもいきり寝ぼうをした。
それもきまりで、起きると朝湯の用意ができている。
土地らしい潮湯のむし風呂である。粗《あ》らいすきまのある床の下から吹きあがる潮の香の強い湯気は、まあたらしい莚《むしろ》を通して、浴槽《よくそう》いっぱいにもうもうとたち籠《こ》めている。狭い戸は、大男で七十に近づきながら骨格、肉づきに衰えのない利休には窮屈すぎても、なにか躙《にじ》り口をはいるような身のこなしで上手にもぐりこむ。はおった麻の浴衣《よくい》は洗布でもあった。冬でもないかぎり長くははいっていないが、からだはたんねんにこすり廻す。熱した塩分の浸透は、肢体《したい》から関節のふしぶしまで鞣《な》めし、なおまた湯気でねっとりした皮膚に、板敷の大だらいの水をざぶざぶ浴びる爽快《そうかい》さはいいようがなかった。
ぬぎ捨てた浴衣とついのもう一枚が、隅《すみ》の籠《かご》にはいっている。利休は濡《ぬ》れたはだか身にひっかけ、今度はそれで全身を拭《ふ》きとってから、極楽、極楽、といいつつ向う側の仕きり戸をあける。鏡台や衣桁《いこう》のおかれた小部屋で、着がえを膝《ひざ》において待つのは後妻のりきであった。
『昨夜とは、うってかわったお色つやになりました。』
『たつがたつまで、片時も暇なしでね。』
『そんなにお忙しくては、おからだにいかがでしょう。』
『御用だからな。』
聚楽第《じゅらくてい》内に住むようになってからは、朝湯はおろか、利休は床にもゆっくりはしていられなかった。秀吉は時刻かまわず現われた。
(野上弥生子著『利休と秀吉』:中公文庫 中央公論社より)
野上弥生子の喜寿を過ぎてからの文章。
こういう文章は、人を黙らせます。
人を黙らせる音楽や絵画と同じです。
最初の小説『縁』(えにし)を、漱石の推薦で、野上弥生子が雑誌に発表したのは1907年のこと。20代でした。
『利休と秀吉』は1962年~1963年に連載されました。
50年以上経って、書かれたのが上の文章。
10年、20年では、書けない小説の文章です。
30年、40年、50年……勉強をして、書き続けましょう。