本来的な工業、あるいはSFの定義における「ロボットとは何ぞや?」…といった御託はどーでも良いのです。
古くは『マジン●ーZ』以来確立された「ロボットとの人馬一体」のコンセプトはやはり理屈抜きでカッチョイイー!と感じさせる演出法であると私は思うのです。
ではその核心は一体どこにあるのかと問われれば、恐らく私は「パイロットの顔が見えるデザインにある」と考えます。
特にその稼働シーンにおいてはコックピットからパイロットの表情が視認できることやパイロットの所在をビジュアル的に確認できることで、ロボットという無機質な存在をその身体の延長線上に置き、パイロット(多くの場合、主人公として視聴者の共感対象となるキャラクター)の「力」として訴えかけることが出来るのではないか…と考えるわけです。
そうした意味では多少安全性や機能性に問題があっても、できるだけコックピットは視認性の高い位置に配置するようデザインを心がけられるのが基本であったはずです、当時は。
アニメにおける、いわゆるスーパーロボットはその後巨大化・高機能化に伴ってどんどんコックピットが一見して確認し辛いデザインとなってゆくわけですが、皮肉なことにスーパーロボットとは対極的な面を有する、いわゆるリアルロボットの多くがその人馬一体のコンセプトをデザインに受け継いでいるのは(実は機体のサイズ的な都合によるのでしょうが)奇妙な話ではないかと思うのです。
…結局御託になってしまった
そんなわけで、こちらも「機体サイズの都合」によって図らずも人馬一体の演出が可能になったスプリガンXのイラスト完成。
ずいぶん上空でポーズ取ってますが設定上素の機体に飛行能力はありません…まぁこの程度の高さならジャンプして到達できることでしょうが。
ミゼットが搭乗するからにはフィジカル面では同等の能力を発揮することぐらい可能では…と考えた結果残像残して移動する…といった演出はOKだろうと考えました。
パイロット剥き出しであることによってこの機体が実は『ジャケット』の発展型であるとも解釈できるのでしょうね…。個人的には素直にスーパーロボットとして取り扱ってあげたいところですが。
古くは『マジン●ーZ』以来確立された「ロボットとの人馬一体」のコンセプトはやはり理屈抜きでカッチョイイー!と感じさせる演出法であると私は思うのです。
ではその核心は一体どこにあるのかと問われれば、恐らく私は「パイロットの顔が見えるデザインにある」と考えます。
特にその稼働シーンにおいてはコックピットからパイロットの表情が視認できることやパイロットの所在をビジュアル的に確認できることで、ロボットという無機質な存在をその身体の延長線上に置き、パイロット(多くの場合、主人公として視聴者の共感対象となるキャラクター)の「力」として訴えかけることが出来るのではないか…と考えるわけです。
そうした意味では多少安全性や機能性に問題があっても、できるだけコックピットは視認性の高い位置に配置するようデザインを心がけられるのが基本であったはずです、当時は。
アニメにおける、いわゆるスーパーロボットはその後巨大化・高機能化に伴ってどんどんコックピットが一見して確認し辛いデザインとなってゆくわけですが、皮肉なことにスーパーロボットとは対極的な面を有する、いわゆるリアルロボットの多くがその人馬一体のコンセプトをデザインに受け継いでいるのは(実は機体のサイズ的な都合によるのでしょうが)奇妙な話ではないかと思うのです。
…結局御託になってしまった
そんなわけで、こちらも「機体サイズの都合」によって図らずも人馬一体の演出が可能になったスプリガンXのイラスト完成。
ずいぶん上空でポーズ取ってますが設定上素の機体に飛行能力はありません…まぁこの程度の高さならジャンプして到達できることでしょうが。
ミゼットが搭乗するからにはフィジカル面では同等の能力を発揮することぐらい可能では…と考えた結果残像残して移動する…といった演出はOKだろうと考えました。
パイロット剥き出しであることによってこの機体が実は『ジャケット』の発展型であるとも解釈できるのでしょうね…。個人的には素直にスーパーロボットとして取り扱ってあげたいところですが。