豆日記

小豆原一朗の日記

ライブスケジュール&かたちあるもの

2020年09月29日 | 豆日記
めっきり涼しくなりました。
夜風が気持ちよくて深夜に働いてるとふらーっとどこか遠くに行きたくなってしまいます。

ライブがポツポツ決まっています。
池袋Adm以外からライブオファーのなかったクオーツ星。
色んな所でやれるのは本当嬉しい。
ライブは水もの。場所が変われば僕ら自身も色々変えるし、意識とは別に変わっていく部分も多々ある。

10月のクオーツ星は2MANだらけとなりました。ソロでは名古屋も決まりました。
クオーツ星では新曲披露しますよ。めちゃめちゃ速くて楽しい曲です。
ソロでやってる曲をバンドで膨らませる曲もあれば、一人では演奏出来ないような曲もあります。
今回は後者。

作曲の原動力は非常に分かりやすくて「誰かに聴かせたい!」
それはお客さんだったり、メンバーだったり、時にライブハウスのスタッフだったり。
元来、怠け者の僕ですが、ライブ、音源制作、など分かりやすい「締め切り」があるとギアが入ります。

先日の「無菌配信コーリング」もそうでした。
今回は1週間で1曲ということで、ちょっと余裕こいてました。
が、2日前にしてギア入れまして、「幽霊部員Q太郎」という曲が誕生しました。
やっぱりケツを叩かれると集中具合が違う。
映像はこちら

そんなわけで、かれこれ10年以上ケツを叩かれて奮闘しています。
ライブスケジュールはこちら!

●10月4日(日)代々木labo
「復活祭~超限定2マンライブ~」
三角形の時間
クオーツ星
開場19:00/開演19:30
前売3000円/当日3500円(ドリンク代別途600円)
※限定20枚
チケット購入はこちら

●10月6日(火)吉祥寺SHUFFLE
「SHUFFLE presents #SaveTheShuffle vol.26」
ハシグチカナデリヤ
クオーツ星
開場19:30/開演20:00
来場(3000円)のご予約はこちら
配信(2000円)はこちら

●10/15(木)名古屋鑪ら場
小豆原一朗(クオーツ星)
雰囲気バンド
百長
開場18:30/開演19:00
1800円(D別)
ご予約はこちらまで
toumeinotuki@yahoo.co.jp

●10月21日(水)十三代目梅雨将軍2man決闘配信series
「豆福決闘将軍」
クオーツ星
たゆたいず
会場:池袋Adm
開演19:30
¥1800
視聴期間:配信当日より14日間
チケット購入はこちら





敬老の日は母方の祖母の命日です。
そして今年は三回忌でした。

本人は一度も話してくれなかったけど、母から聞いた祖母の話。

戦後まもなく山口県で祖父は洋服屋の主人として商売をしていました。
当時洋服を扱っている店は少なく、駐屯していた米軍たちに飛ぶように売れたそうです。
立派な家に住み、妻と子供たちを養い、若くして人生の成功者だったとききます。

そんな祖父の店に当時若かりし祖母が就職します。
祖父は女癖が悪かったそうで。
若かりし日の祖母はそれはそれは美人でした。
9割9分9厘、祖父が手を出したのでしょう。

やがて2人は駆け落ちをします。繁盛していた店も家族も捨てました。
後日談としてその工場を祖父の弟が引き継いだらしいのですが、うまくいかずに潰れました。
沢山の恨みを買ったであろう2人は二度と故郷の山口県には戻れなくなりました。

2人は広島に住み、3人の子供が生まれます。
長女が母で、その下に弟が2人。

荒れに荒れた当時の生活。祖父の元々の女遊びに加えて、アルコール依存症に家庭内暴力。
祖母は常に頭を悩ませていたそうです。

ある日、祖母は祖父の酒を断たせる為に医者から「アルコールを分解する薬」をもらいました。
祖父が酔っ払っている時、気づかれないようにその薬を混ぜていたらしいのですが、
一口飲んですぐ「味が違う!」と怒鳴られて、祖母はボコボコに殴られていたそうです。

そんな生活を繰り返し、早々と祖父はガンで亡くなりました。
祖母は「やっとあの人から解放される」とホッとしたそうです。

やがて長女(母)は東京へ行き、父と出会い、僕を生みます。
次男のY叔父さんは勉強熱心な人で早々と某有名自動車メーカーに就職し、名古屋に移り、結婚します。
三男のR叔父さんも某自動車メーカーに就職。祖母と2人広島で暮らしました。

R叔父さんは気性が荒く、母曰くちょっと祖父に似ていたそうです。
次長課長の河本を少し太らせたような見た目でサッカーが好きな活発でひょうきんな人ではありましたが、
親戚一同集まった時、母や祖母に喧嘩口調でまくし立てたりと、子供ながらに「少し怖い人」という印象もありました。
夜中遅くに血まみれになって帰って来たこともありました。


そのうち祖母が東京に来て僕たちの家で一緒に暮らすことになりました。
僕が保育園の頃の記憶です。

祖母は原宿のお店に就職して洋服を作っていました。
洋服は家で作っていたので、日中ほとんど家にいました。
父と母は共働きで夜遅くまで帰ってこないし、保育園以外、僕はほとんど祖母と一緒にいました。

洋服に囲まれていた祖母の部屋をよく覚えています。
洋服関係の仕事を長年やっているだけあって、祖母はお洒落でした。
一緒に散歩していたら知らないおじいさんに「美人さんだねー」とを声かけられたこともありました。

よくも悪くも孫の僕に「激甘」でした。
母から聞くと若かりし日の祖母は相当怖かったらしく、
近所の駄菓子屋に「こんな体に悪いもんで子供を騙くらかしやがって!」と怒鳴りこんだこともあったそうです。

そんなエピソードが信じられないくらい優しい祖母に育てられ、持って生まれた素質もあるのか、
僕はワガママなクソガキに育ちました。
昼食の最中に「お菓子がほしい!」とか言って祖母を困らせたり、
何か要望が通らないと急に家を飛び出して幾度となくプチ家出したり…
今思い返すと申し訳ない気持ちでいっぱいです。

毎日保育園へ送ってくれたのも祖母で
「雨の日に水たまりをぴょんぴょん跳ねて、どんどん進んで行くいっちゃんをよく思い出す」
と大人になってからも祖母によく言われました。

妙に頭に残ってる記憶があります。夕方の再放送アニメ『銀河鉄道999』の「迷いの星の影」という話を祖母と見ていた時です。

冥王星にある氷の墓地の管理人、シャドウ。
シャドウは生身のからだを捨てて、機械の身体になったけど、若い頃の美貌に勝てないから顔だけのっぺらぼうのままで生きている。
生身の美貌を手に入れるために主人公の鉄郎の魂を奪っていく。という話でした。
(ラストに出てくる「ここは宇宙で一番悲しい所だから…」というメーテルのセリフで有名な話)

いつもは次回予告になったら祖母が立ち上がって夕飯の支度をするのですが、
この回の時だけ座ったまま、

「かたちあるものはいつか壊れるんよ」
と、祖母がポツリと呟いたのを妙に覚えています。

いつも眠るときは父と母に挟まれていたのですが、月に1、2度だけ祖母の部屋で一緒に眠りました。
その時はいつも祖母が「月の沙漠」という歌を歌ってくれました。
子供ながらに曲調から怖い歌だな、と思ってました。
今、改めて歌詞を見ると子守唄には向かない本当に悲しい歌で。
何故王子様とお姫様が家来もつれず二人だけで沙漠を越えていくのか、など。
駆け落ちした2人を重ねてるようにもとれます。
祖母の歌声は今でも思い出せます。


「月の砂漠」

月の沙漠を はるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました

金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
二つの甕は それぞれに
紐で結んでありました

さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人は おそろいの
白い上着を着てました

曠い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えて行きました
黙って越えて行きました




僕が中学生になる頃、祖母は広島に戻りました。
再びR叔父さんと暮らします。

そこからずっと祖母はR叔父さんと長い間暮らしました。
R叔父さんは40歳を過ぎて結婚して、
数年後子供(僕にとっては従兄弟)が生まれ、
数年後離婚して、
その子供が18歳で結婚して家を出て、
その新婚の二人の間に子供が生まれて。
その間もずっと祖母はR叔父さんと共に暮らしました。



僕は祖母と会う機会は減っていき、主な連絡はハガキか電話でした。
耳の悪い祖母は「見栄えが悪いから」と言うことで補聴器をつけなかったので、
電話の時はいつも大きな声で喋りました。
僕がやってるバンドの音源も持っていたけど、どこまで聴こえているのかは分かりません。
家の壁に僕のバンドの写真を貼ってくれていました。

僕が初めて一人暮らしをする時、祖母から食器棚をプレゼントしてもらいました。
いまだに重宝しています。

会える機会は何年かに一度になりましたが、
会った時は子供の頃と変わらず本当に優しくしてもらいました。
別れ際はいつも「ハグしよう」と言って抱きしめてくれました。

10年くらい前に母の退職金で祖母も連れてカンボジアとベトナムに家族旅行に行ったことがあります。
その時ツアーで一緒だった人達みんなに「お元気ですねー!」と声をかけられてました。
確かに80歳でもハキハキしていたし、大きな病気もなく健康でした。

しかし、2年前の記録的な豪雨に広島が襲われていた時期。
祖母の健康状態が悪くなり入院することになりました。

僕が病院に行くと、R叔父さんが迎えに来てくれました。
祖母は僕の手を握って何度も「いい男になったねー」と言ってくれました。
今まで大きな病もなく、元気な祖母しか見たありませんでした。
涙を堪えるのに必死でした。
「ご飯さえちゃんと食べてくれれば元気に退院できるのにねぇ」
と看護婦さんが話していました。
祖母には味の薄い病院の食事が合わなかったそうです。
その日が祖母に会えた最後の日でした。

帰りはR叔父さんに駅まで車で送ってもらいました。
R叔父さんはガリガリに痩せていました。
正直、入院している祖母よりも健康状態が悪そうな感じでした。


それから1ヶ月後の9月21日
母から祖母が亡くなったとの知らせがきました。
あと1ヶ月で93歳の誕生日でした。
本人の意思を尊重して家族葬となりました。

あとを追うように10月29日にR叔父さんが亡くなりました。
あの時の痩せ細った体を思い出すと、不思議ではありませんでした。

二人が暮らしていた家の掃除を手伝いました。
ゴミの処分などは母が主にやっていて「とんでもない量のゴミで大変だった」と泣きそうな顔で言ってました。
祖母がいなくなってからゴミ屋敷と化した家は当時の叔父さんの精神状態を物語っていました。
祖母の作った大量の洋服はご近所さんにあげたそうです。
立派な生地と丁寧な作りで非常に喜んでいたと聞きます。

「何か欲しいものあったら持ってって」と母が言うので
僕は叔父さんの部屋から金の置き時計をもらいました。



僕の家には祖母が送ってくれた食器棚とR叔父さんの置き時計があります。

形あるものはいつか壊れます。
でも、形がなくなっても残るものはあると思います。

食器棚を開く度に「しっかり栄養のあるもん食べるんよ」と祖母の声を思い浮かべます。
時計を確認する度に「時間だぞー。がんばれー!」というR叔父さんの声を思い浮かべます。


二人のご冥福を祈ります。













生前、祖母は「ババアだから写真は撮らんといて」と言っていたので残っていた写真は祖母の若い写真ばかりでした。
「ナイチンゲール」と書かれているのは写真を見た外国の方が祖母を褒めてつけたあだ名だそうです。
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