深見伸介の独学日記

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眼について

2025-02-14 05:20:11 | 歴史・文章
ここに一枚の人物写真があったとしよう。その眼には、無数の針が突き刺してある。写真を見た人は背筋が震えてしまうに違いない。これが例えば、頭に突き刺してあるならば、さほど恐怖感はないはずである。冗談にもみえるかもしれない。だが、「眼に突き刺してある」となると、それはその人物の、存在の否定にすら見えてくるはずだ。視覚を奪われた人間ほど、悲惨なものはない。

以上は、三浦雅士「幻のもうひとり」に収録されているエピソードである。人は「眼」によって対象を把握する。対象を把握し、ときには自己をその対象と同化させようと努力を重ねる。そのことにより、新しく自己を更新していく。それはまさしく、「学び」と呼ばれるものの本質にほかならない。マルクスが夥しい経済学の書物を残したのも、労働者の受難を見たからであろう。実際の労働者の悲惨を見た訳ではなく、おそらく労働の実態を文書で読んだのであろうが。しかし、読むことにより、見ることにより、眼球の運動により、マルクスが「悲惨な労働者」を把握したのは間違いないと思われる。「見ること」は、時に人を革命家に変えてしまうというわけだ。

話は変わるが、物を学ぶときに有効なのは「筆写と音読」と言われる。評論家の佐藤優によれば、彼の知り合いの作家たちはほぼ全員、筆写と音読を習慣にしているそうだ。私も、よく筆写と音読を試みる。宮沢賢治だったり、漱石だったり、丸山真男の政治思想だったり、メニューはいろいろだが、筆写をしていると妙な気分になる。なぜか。たとえば、ノートに賢治の詩を手書きで筆写したとしよう。それを後から見直す。そのとき、ある落差が生まれるのだ。明らかに自分の筆跡であるのに、いまの自分ではとうてい書けない内容の文章がそこに現れるからである。そしてそこには、賢治の詩と私の筆跡が融合しているという現象がおきているのだ。こうして私は、少しずつではあるが、宮沢賢治という人間の言語に染まっていく。これが、筆写という一見単純な行為の持つ威力なのだ。それを可能にしているのは、手と眼である。とりわけ、眼で見ることは重要である。眼で見る。眼で確認する。そのことにより、私たちは、新しく自分を更新していくのだ。

断片的な自分史②

2025-02-10 16:00:58 | 歴史・文章
私が「自分史」を書こうとおもったのは、立花隆「自分史の書き方」を読んだのがきっかけである。立花は、辛い過去でも書くことによって相対化できる、と言う。精神医学でも、似たようなアプローチがあるらしい。それを知り、拙い「自分史」を書くことにした。だが断片的にしか、今のところ書けない。技術的な面もあるし、記憶が結構、あやふやだからだ。

2019年、4月。私は42歳で郵便局を辞めた。鬱病が原因である。長い間、緊張感を持って仕事をやり過ぎたせいかもしれない。同居していた両親は、鬱病に対して全く理解がなかった。「そんなもん、病気とはいわん」と父は言い、母もそう言った。母は、何時でも父の意見に賛成する。そうしないと、殴られるからである。父は私が就職してから退職するまで、私の預金通帳を握っていた。私の給料で、週末飲み歩いた。家でも、ロング缶3本のビールを毎日飲んだ。通帳を返してほしい、と言うと必ず「甘ったれるな」と怒鳴り返してくる。話し合うことなど全く、できなかった。

読書することだけが、私の生きがいだった気がする。ドストエフスキー、吉本隆明、夏目漱石。またはフーコー、ラカンなどフランス現代思想も分からないなりに読んだりした。だが、退職した私には、家のなかでゆっくりと本を読むことすら許されなかった。「早く再就職しろ」と両親が毎日、私に詰め寄ってきたからだ。私は、疲れ果てていた。




断片的な自分史

2025-02-10 05:36:34 | 歴史・文章
私は1996年、郵便局に入った。2019年に退職するまで配達員として働いた。いまは、無職である。

茨城県の古い木造の郵便局が、私の最初の勤め先だった。田舎道で道幅が狭かったが、ダンプカーが猛スピードで走り回っていた。あの頃、何を考えて仕事をしていたのだろう?ほとんど記憶にない。ただ覚えているのは、先輩からの怒声におびえながら仕事をしていたことだけである。先輩職員は10人以上いたが、派閥に分かれていて、陰口がいつも飛び交い、仕事場は暗い緊張感に満ちていた。当時、19歳だった私は、どの派閥にも入れず孤立していた。馬鹿にされていたのである。「じいや」というあだ名を付けられたのは、入ってすぐの頃だった。地元の方言で「お爺さん」という意味である。無口で、おっとりした性格の私は、すぐに職場の「余計者」にされてしまった。

不器用だった私は、郵便バイクを上手く乗りこなすことが出来なかった。毎日、夜の7時くらいまで配達していた。労働基準法など、あってないようなものである。配達が終わらない場合、早く配達を終えた職員が助けに行く決まりになっていた。しかし、職場で孤立していた私の手伝いなど誰も来なかった。上司たちも、知らぬふりである。

昼食をとる暇もなかったが、一か月に、2~3回は郵便物の少ない日があり、そんな時は食堂で昼食をとった。田舎の、昔ながらの大衆食堂で、ラーメンでもカレーでもどんぶり物でも何でも安く食えた。だが、食堂のおかみさんは、私に冷淡だった。ほかの先輩職員とはにこやかに話すのに、私とはほぼ会話をしてくれなかった。私は、やがてその食堂に行かなくなり、昼食を取る余裕があるときでも、食堂へは行かず、コンビニでパンを買い、人気のない場所にバイクを止め、食事をとった。食堂のおかみさんは、あいつ、うちに飯を食いにこなくなった、と私の悪口を言っていたようだ。職場の人間に見つからないように煙草を吸うようになったのも、このころからだった。






文章練習法

2025-02-06 03:08:30 | 歴史・文章
どうすれば、文章が書けるようになるのか?そんなことを考えながらあれこれ乱読していたら、たまたま読んだ鈴木邦男「行動派のための読書術」(長崎出版 1980年)に文章練習法のようなことが書かれていたので、紹介する。

「うまい文章はまず何度も黙読する。又、時には声を出して読んで、そのリズムをつかむようにする。それだけでは足りない。その上に、その名文を自分も同じように原稿用紙にうつしてみることである。戦前の小説家志望者は原稿用紙に志賀直哉の『城の崎にて』などを一字一字、楷書で書き写して文章の呼吸を学んだといわれている。ただ、読むだけでは分からなかった文章の<生命>が分かるようになるのだろう。写経にも似ている行為である。読経だけではどうしても分からないものを写経によって感じとるのではないだろうか」(115頁)

「書き写す作業をしてみれば全く新しい世界が開ける。ウソだと思うのならばやってみることだ。意味がわかるだけでなく、自分の新しい考えが生まれ、さらに展開されるのである。その書き写してることとは全く別なことでヒントを与えられることもある。読むだけで済むのに、さらに手間ヒマかけて書き写す。時間もかかるし、無駄なことをしているような気がしてくる。しかし、その非合理的な作業の中で精神が統一され、インスピレーションも湧いてくる。これは実際にやってみれば驚くほどである」(116頁)

「ある意味ではこの単調な作業は原稿を書いている時の引用ならば一つの『息抜き』であり、書き写しだけをやっている時は一つのメディテーション(瞑想)である」(116~117頁)

「この原稿を書く参考にと思って、ものを書いて生活している十人ほどに、どうやって文章の練習をしているのか聞いてみた。そして驚いたことには、この『写す』ということが一番多かった。自分の好きな作家の短編を写すとか、あるいは小林秀雄の評論。変わったところでは平泉澄の『少年日本史』を毎日何ページかづつ写しているという人もいた」(117頁)





佐藤忠男 論文をどう書くか

2025-02-05 03:40:49 | 歴史・文章
谷崎潤一郎「文章読本」を読んでいる最中だが、少し寄り道をする。映画評論家、佐藤忠男の「論文をどう書くか」(講談社現代新書)を読む。佐藤忠男も独学者である。彼は、子供の頃に面白いと感じた通俗小説、通俗映画についてこう書く。

「・・・私は『面白さ』というものにはたんなるひまつぶし以上の知的な刺激が含まれているばあいがあるのではないか、そこに積極的にのめりこんでいったことによって、自分は学校の勉強以上の勉強ができたのではないか、ということをいいたかったわけだ。いわば私は『面白さ』という平凡な日常的な言葉にこだわることによって、自分の劣等感を自己肯定に逆転させようと試みていたのだった」(151頁)

佐藤忠男の書く「自分の劣等感」というのは、彼の学歴コンプレックスのことである。現在でも学校教育は、生徒たちに劣等感を植え付けるだけのものになっているのでは?面白い、と思うことにこそ、その人の人生を煌めかせるのもがある。佐藤忠男からのメッセージだ。この本には、福沢諭吉の文体についての考察も書かれていて、勉強になる。