ふと、目に留めた星占いで「今週は、金運の神社にお参りに行くと良い」とあり、出先で次の予定まで時間があり、少し足を延ばしてみることにした。
私が訪れたのは早稲田にある穴八幡宮で、冬至から節分迄の間のみ頒布する「一陽来復」という金銀融通のお守りで有名である。セミの鳴き声が降る様に鳴り響く階段を上がると、コロナパンデミック以降、久しぶりに手水舎に水が流れているのを見つけた。安堵と嬉しさが湧いてくる。早速、手口を清め、他の参拝人もほぼ居ない中、ゆっくりとお参りした。こんな時間の潰し方も中々良いなと思う。
それでもまだ次の予定までは少し時間があり、折角なのでふと早稲田大学を散歩してみようかという気持ちになった。
実のところ私は、子供の頃から実によく勉強をし、勉強が大好きだったのだが、大学進学が叶わなかったのでキャンパスライフは知らない。若い頃は、それをコンプレックスに思う事が頻繁にあったが、40も半ばを過ぎると学歴よりどう生きてきたかを評価してくれる場面に遭遇する事が増えて、今では素直に仕方なかったと人生の思い出の一つとして扱える様になった。
私が、勉強に夢中になったのには理由がある。一つは、実母が、「女性が勉学に夢中になると、本来女性としてすべき家事や自分を着飾る事への関心が低下し、女性の魅力に欠ける人間になる」という偏見を持つ人だったことだ。私が勉強をしているとわざと家事を言いつけたり買い物を頼んできたり、しまいには腹を立てたりするところがあり、家庭訪問や面談時にも担任の先生に「うちの子は勉強ばかりして困る」と訴えるほどで、このように「勉強するな!」と真っ向から言われると反って勉強したくなってしまったのだ。また、幼い頃から両親の仲がたいへん悪い家庭で、その喧嘩を見るのが苦しくて、あまり家に居たくないというのもあった。特に、休みで父が家にいる日曜が一番嫌いだった。そこで母とは違い学びたいという意欲に対して大賛成だった父にお願いして、一週間のうちの5日間を塾に通えるようにしてもらったのだ。
特に日曜の塾は最高だった。朝の9時から16時くらいまでお弁当持ちで授業を受け、塾では友達もできるし、通うのに電車で片道1時間超を費やし、ほぼ家で過ごさなくて済む。また、母に家事やらの用事を言いつけられて、集中を切らすこともなく勉強できた。
よって、小学生のころから大学進学を目標にしていたし、できるものならその後、海外のビジネススクールに進みたいとさえ考えていたのだが、大学進学を目指す前に、父が事業に失敗して失踪した。家には、ある日予告もなく見知らぬ大人が数人ずかずかと上がり込んできて、家具やら電化製品の家財を値踏みし、差押えをしていった。高校の担任からは、授業料の未納を告げられ、通勤定期券も切れて自転車通学に変え、バイトも始めた。そんな数カ月後、作業服の様な出で立ちで「命の洗濯をしてきたよ~~」と呑気な言葉で突如帰宅した父と入れ替わりに母親が出て行った。
私や妹弟は、笑うことは勿論、涙を流すことも忘れた。大学進学なんて、世界の何処にも見当たらない言葉になった。
人は泣くにもパワーが必要なのだと知り、「悲しい」と口にできて、泣けるうちはまだまだ余裕があるのだと思う。もし私も泣けていたら、例えば、夜学の大学を選択するとか何かしら考えられたのかもしれない。
しかし、私や妹弟は、あれよあれよと反転してしまった想像もした事のなかった新しい日々を闘うことに必死で、その後数年、それぞれが笑い方も泣き方も忘れて表情を失った。時折、持てる力があれば、それは怒りになり、また力を失うという繰り返しだった。
でも、今思い返して浮かぶ言葉は、
人生ってすごい!
明けない夜はなく、止まない雨はなく、出口のないトンネルはないというのは真実で、私達は、それぞれ安心と思えた居場所や信じることのできるパートナーに出会えた時、自然と心から笑えるようになった事を身をもって知った。
妹が、結婚したい人がいると彼氏を連れて来た時、3人で食事しながら、お酒を飲んだ。満面の笑みで彼を紹介し、2人のなりそめを話していた妹は、笑顔だったのに何故かそのうち一人で勝手に怒り出し、最後は彼にもたれてシクシク泣き、彼に慰められると、そんな彼がやっぱり好きだと、言ってニコニコするいう酒癖の悪さを見せてくれた。
彼は、「酔っぱらうと笑って怒って最後は泣くんですよ。でも、そんな所も可愛くて」と言ってくれていた。
面倒な酔っぱらいの醜態であったのだが、私には、妹が眩しくて、可愛くて、何よりも兎に角、感情を思いっきり出す姿が嬉しく、ほっとした思い出として、今でもしっかり残っている。
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