文春文庫。
これです。ボストン・テランの2作目。
読了は2005/5/9(えぇっ)
今ごろ読了っつーのが気の毒(オレが)。ついでに,読了記録が今ごろっつーオレの執念深さに乾杯(キラリ)。
内容としては,どん底を這いずっている人間の再生の話。で良いのかナァ。まぁ主要プロットの1つではあるな。多分。
殺された(けど結局生き残った)り,麻薬所持/取引の幇助容疑とかなんやらで,居場所を追われた主人公が,生きる気力を無くしグズグズしていたところに,実はアレはワナだったんだよッ!な,なんだってー(AA略),な感じで復讐をはじめる話。
うん。間違ってはいないよな。あんまり正確ではないが。詳しくは上のリンクを辿ってくれ。
ラストのシーンの激しい入れ替わりは,小説としての文法っつーか作法っつーか様式としてはありだろうな,と。まさに文章でなし得る技っつーか。この作者がどーやって文章書いているか分からないけど,ふつーに映像を作ろうとしてもこりゃぁねぇ?と言う感じ。
最近,なんだか物語を紡ぐ作品群におけるカテゴリーとその手法ということを漠然と考えることがあったのよ。要は,物語を語る上で映像/映画なのか小説なのかマンガなのかといった程度のカテゴライズでしかないんだけどね。
そのなんだ,コレだけ各カテゴリーにおける手法/文法というのがかなり確立してしまった今,ストーリーテリングが巧みであることだけではダメで,それを表現するためのカテゴリーの選択とそのカテゴリーにおける手法を最大限に生かさないと,ダメなんだろうなぁ,と。
たとえば,マンガというカテゴリーがある意味市民権を得ているとすると,テーマの選択の奇抜さ(こんなテーマを敢えてマンガで表現する,といったニュアンス)ではなくて,そのカテゴリーを選択した必然性が必要になるような気がする。だって,今や映画はCGバリバリで,いわばマンガ的な表現も十分に行えるようになってしまったからねぇ。とか。
えぇと,落ちは?
うん。今更,こんなすでに手垢の付きまくったような話をぐちゃぐちゃ考えていたことデスカ?
(ぐんにゃり)
これです。ボストン・テランの2作目。
読了は2005/5/9(えぇっ)
今ごろ読了っつーのが気の毒(オレが)。ついでに,読了記録が今ごろっつーオレの執念深さに乾杯(キラリ)。
内容としては,どん底を這いずっている人間の再生の話。で良いのかナァ。まぁ主要プロットの1つではあるな。多分。
殺された(けど結局生き残った)り,麻薬所持/取引の幇助容疑とかなんやらで,居場所を追われた主人公が,生きる気力を無くしグズグズしていたところに,実はアレはワナだったんだよッ!な,なんだってー(AA略),な感じで復讐をはじめる話。
うん。間違ってはいないよな。あんまり正確ではないが。詳しくは上のリンクを辿ってくれ。
- ポイント:
- 相変わらず,比喩が氾濫するような文章で流し読みするのがしんどい。ってふつーに読めよ。
- 前作に引き続き,やったらタフな女性が登場するのがポイントか。
- シーンの入れ替わりもハゲしめ。特に後半っつーかラストに至ってはもォ大変な状態。
- ラストは割と曖昧。好みの問題だが。
ラストのシーンの激しい入れ替わりは,小説としての文法っつーか作法っつーか様式としてはありだろうな,と。まさに文章でなし得る技っつーか。この作者がどーやって文章書いているか分からないけど,ふつーに映像を作ろうとしてもこりゃぁねぇ?と言う感じ。
最近,なんだか物語を紡ぐ作品群におけるカテゴリーとその手法ということを漠然と考えることがあったのよ。要は,物語を語る上で映像/映画なのか小説なのかマンガなのかといった程度のカテゴライズでしかないんだけどね。
そのなんだ,コレだけ各カテゴリーにおける手法/文法というのがかなり確立してしまった今,ストーリーテリングが巧みであることだけではダメで,それを表現するためのカテゴリーの選択とそのカテゴリーにおける手法を最大限に生かさないと,ダメなんだろうなぁ,と。
たとえば,マンガというカテゴリーがある意味市民権を得ているとすると,テーマの選択の奇抜さ(こんなテーマを敢えてマンガで表現する,といったニュアンス)ではなくて,そのカテゴリーを選択した必然性が必要になるような気がする。だって,今や映画はCGバリバリで,いわばマンガ的な表現も十分に行えるようになってしまったからねぇ。とか。
えぇと,落ちは?
うん。今更,こんなすでに手垢の付きまくったような話をぐちゃぐちゃ考えていたことデスカ?
(ぐんにゃり)
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