月十五日の説戒の時、仏、須菩提に告げ、「今日、菩薩大会なり。諸菩薩に因むが故に般若波羅蜜を説く。菩薩、当に是れを学成すべし」。
『道行般若経』巻1「摩訶般若波羅蜜道行品第一」
とりあえず、『般若経』でも布薩の場面が登場することが分かる。なお、このことに関連して、平川彰先生が、こんなことを指摘していた。
出家菩薩にも和尚や阿闍梨があったことも、大乗経典に説かれています。さらに月の十五日に布薩の集会をすることも、般若経などに説かれています。中インドでは、満月と新月の晩に集会をすることは、婆羅門をはじめ、沙門にも古くから行われていましたので、釈尊もこれを採用されて、とくに比丘たちに、これを波羅提木叉を誦出する集会とされたのであります。しかし菩薩の集会には、波羅提木叉の誦出はありませんでした。
平川先生『仏教入門』春秋社・2003年新装版、242頁
まず、布薩について考えれば、平川先生のご指摘を待つまでもなく、波羅提木叉の誦出が大事ではあるが、「しかし菩薩の集会には、波羅提木叉の誦出はありませんでした」というご指摘、どの辺が典拠なのかが気になる。それこそ、先に引いた『道行般若経』でも、「般若波羅蜜」を説くとあるため、平川先生はこれを指しているのかもしれない。
そう思う時、『般若経』に於ける六斎日について検討する必要があるだろう。
仏、須菩提に告げたまわく、「是の如し、是の如し。是の善男子・善女人、若しくは六斎日――月の八日、二十三日、十四日、二十九日、十五日、三十日――に、諸天衆前に在りて、是の般若波羅蜜の義を説く。是の善男子・善女人、無量無辺阿僧祇不可思議不可称量の福徳を得る。何を以ての故に、須菩提よ、般若波羅蜜、是れ大珍宝なり。何等をか是れ、大珍宝なるや。是の般若波羅蜜、能く地獄・畜生・餓鬼及び人中の貧窮を抜く〈以下略〉」。
鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』巻12「無作品第四十三」
実は、このような「六斎日」の指摘は、他の『般若経』系経典にも容易に見出すことが出来る。いわば、先ほど平川先生が指摘した通り、戒を説くのではなく、「般若波羅蜜の義」を説いたわけである。しかしながら、この道理を説けば、在家信者である善男子・善女人が無数の福徳を得て、三悪道にも落ちないし、現世に於ける経済的貧困なども脱するという。いわば、現当二世にその功徳が及ぶといえる。
その意味では、「般若波羅蜜の義」は布薩の機能も持っていたといえよう。よって、戒を説かずとも、この智慧で十分であった。いわば、この辺が、大乗仏教に於ける四衆自体を教化や接化の対象としていく意思表明だったとも受け取ることが出来る。この点からすると、他の大乗経典に於ける布薩機能の位置付けは、また慎重に見ていく必要がある。
無論、日本仏教各宗派では『梵網経』「第三十七故入難処戒」の影響も受けつつ、布薩が採り入れられ、特に近世以降は略布薩なども成立した。元々、インドで、仏教に限らず月の満ち欠けに従って集会をすることの意義を認めていたのであれば、当然に大乗経典もその影響を受けたわけで、それが更にどう展開したかを見ておくと良いのだろう。
まぁ、詳しいことは別の記事にしておきたい。
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