つらつら日暮らし

万仭道坦禅師『禅戒本義』序に見る苦言

実世界の研究でも丘宗潭老師による『教授戒文』提唱を学んだことがあったのだが、丘老師は禅戒論を論じるに当たり、ご自身が改正された万仭道坦禅師『仏祖正伝禅戒鈔』よりも、同じ万仭禅師による『禅戒本義』を尊重していることが分かった。

それも含めて、『禅戒本義』自体を学んでみたいと思い、今日はこんな記事を書いてみようと思う。

  禅戒本義序
 戒学に幼くして戒師と作り、禅学に少くして禅師と称するは、古今の仏祖の呵する所、其の罪免るべからず。
 如来の在世、二歳の沙弥有り、一歳の弟子を将ち仏処に往く。仏、呵責して言わく、汝の身未だ乳を離れず。応に人の教授を受るべし、云何が人に教えんや、云云。
 吁、夫れ、戒学多般なり、今人何ぞ罄くさん、況んや亦禅戒は宗門の一大事、具眼底の舌頭在りても、輒く教授すべからず。古に曰く、説戒は仏法の大綱なり、と。
 勝運寺主、一日問うて曰く、雲州以来、師の説戒を聞く、諸叢林に古今無き所、蓋し本拠有るや。
 余曰く、即ち是れ仏祖正伝なり。永平高祖曰く、仏祖正伝菩薩戒は、嵩嶽曩祖嫡伝し来たり、震旦五伝し曹渓に至り、青原・南嶽の正派、伝えて今に至ると雖も、杜撰の長老、夢にも未だ見ざる、と。
 寺主懽然として曰く、若し然あらば、是を以て世に出るは、則ち杜撰等の幸いに非ずや。
 余曰く、然るに女媧子に逢わざれば、何時に祖天の傾柱を全うすることを獲んや。遂に戒文に小註を加えて付与して爾か云う。
  時に安永三正月四日 七十七翁万仭手書 芸州勝運寺の客席にて
    『仏祖正伝禅戒本義』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・441頁上段、訓読は拙僧


以上である。今回タイトルに「苦言」と入れたが、上記一節から、その内容が理解出来よう。つまりは、戒学を知らないのに戒師になったり、禅学をしていないのに禅師(現代の用法と違い、ただ、坐禅の師ということ)になったりするのは、古今の仏祖がそれを叱っている、ということである。

それで、興味深いのは、万仭禅師の引いた喩えである。釈尊の在世時に、二歳の沙弥がいて、一歳の弟子を導いていたというのだが、釈尊はそれを叱り、「まだ乳離れもしていないような者が、何故人に教えているのか」といったという。拙僧、この一事は万仭禅師の言葉を見るまで知らなかった。出典は、用語の問題もあったが、おそらくは『四分律』巻33「受戒?度之三」で間違いないと思う。後代の南山道宣や霊芝元照の註釈書にもこの一事が引用されてはいるのだが、語句が遠いため、万仭禅師は直接『四分律』をご覧になったか、或いは、その抄書などを見たと思う。

この引用文の意図だが、『四分律』の原文では、釈尊がこの一事を諸比丘に示された後で、「自今已去、十歳の比丘、人に具足戒を授くることを聴す」とした。これが、いわゆる比丘の師となれる「和尚」という立場の誕生であったといえる。なお、「二歳」「一歳」「十歳」については、もちろん生まれてからの年齢ではなくて、比丘になってからの年数(いわゆる法臘)を指すものであるので、注意が必要である。

それから、「説戒は仏法の大綱なり」とあるが、これは、南山道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』巻上四「説戒正儀篇第十」の冒頭に見える一節である(実際には、「説戒儀軌は」)。ただし、ここも注意が必要で、この場合の「説戒」は「布薩説戒」に当たるので、ここでいう授戒会の「説戒」とは少し意味合いが違う。

勝運寺というのは、現在の広島県竹原市忠海床浦にある曹洞宗寺院で、当時の住持(瑞天陽光大和尚)は雲州(出雲国、現在の島根県東部)で行われた万仭禅師による説戒を聞き、そのまま自坊にまで招いたということらしい。なお、この雲州の一件は、本書の陽光和尚による跋文に「明和八年辛卯冬、老和尚を雲州の永昌に請して、戒会を啓建す。余、亦た参随して、因みに密室に投じて、重授され、尋く禅門戒義の大本を委説し?る」(『曹全』「禅戒」巻・453頁上段)とあって、先の経緯を示している。なお、万仭禅師の伝記を研究された岸澤惟安老師は、他の文献の奥書等から、雲州行きを明和9年ではないか?としているが、しかし、ほぼ同時代の人が年数はともかく、干支は間違えないと思うので、もしかすると、明和8年から、2年ほど現地に逗留された、というのが正しいのではなかろうか。まぁ、ただの私見ではあるが、関連して一言だけ申し上げた。

また、万仭禅師がその陽光和尚の問いに答えた「永平高祖」の言葉だが、『正法眼蔵』「受戒」巻の一節を漢文に改めたものである。万仭禅師はこの言葉を元に、仏祖正伝の禅戒が伝来していることを示したのであった。

さて、本書成立の経緯は、上記の通り、万仭禅師が陽光和尚に対して教示した禅戒の本義が元になっているのだが、その様子について、「遂に戒文に小註を加え」とある通りで、道元禅師が示された『教授戒文』に対して、博覧強記を誇る万仭禅師が「小註」を付したという。正直なところ、「小註」といえるほど少ないわけではないが、確かに、宝暦8年(1758)に著された『仏祖正伝禅戒鈔』に比べて、安永3年(1774)に著された『禅戒本義』は、その簡略版という位置付けも可能である。この辺は、先行研究も存在しているので、詳述はしない。また、『禅戒鈔』と『禅戒本義』の関係について丘宗潭老師の指摘は以下の通りである。

 禅戒本義では三聚浄戒は皆な此れ阿耨多羅三藐三菩提なり又曰く一実相の功徳を三度説くなりと心得るなりと云ひ佛の處では十重禁戒三聚浄戒じや達磨の下では自性?妙じや廓然無聖じや不識じや六祖に至ては無相戒じや御開山の處に来ては一実相の功徳系統がチヤント定て居る壁観三昧無相戒一実相の功徳十重禁戒三聚浄戒異名澤山あるが佛性戒の一だ
 皆な禅戒本義を求めて見るが善ひ本義は文が簡にして明かじや禅戒鈔はダラダラして居る却て分り悪ひ今頃の衆は禅戒本義あることも知らぬ人が多い
    拙僧所持『丘宗潭老師『教授戒文』提唱』63丁裏~64丁裏、翻刻は拙僧


これは、明治39年に行われた提唱の記録である。後に丘老師は『禅戒鈔』を改正して刊行されるなどしたが、この段階では『禅戒本義』を尊重していたことが分かる。しかし、簡にして明らかという捉え方は、いかにも丘老師らしいご見解であると思う。

近代以降の禅戒論を学ぶためにも、丘老師のご見解については、改めて参究したいと思っている。その上で、もちろん万仭禅師のご批判も頂戴しておきたい。

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