つらつら日暮らし

周那からの食事について①(拝啓 平田篤胤先生43)

江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』の内容は、一言で言えば仏教批判である。当然にその矛先は、仏教の開祖である釈尊(釈迦牟尼仏)へと向かうが、その向き方は遠慮が無いというか、批判ありきで見ているところもある。今回は釈尊が入滅する原因となった一件についての、篤胤による扱い方を見ておきたい。

さて釈迦は諸の弟子どもと迦毘羅衛城と云所の闍頭園といふへ到つたる時に、そこに工師の子とあるから大工の様な者と見へますが、其名をば周那と云が釈迦の所へ来て、例の頭面礼足して云には、明日私方に於て食を進じたいから来て下されと請待する。そこで釈迦はうなづいて承知いたし、其翌日法服を着し手には鉢を持ち大衆が取巻き其周那の舎に行たる処が周那は程なく飲食を設けて釈迦にも、供につれたる坊主どもにもくはして、扨別に栴檀樹の茸は世に珍しきものでござると云て、夫を煮て釈迦にくれたでござる。処が釈迦も為に説法すと有から、これは珍味をくれてかたじけないなどヽ悦び、舌打を致し食つた事と見へるでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』78頁


いわゆる「チュンダ」からの食事の一件である。篤胤がこの一件を、どの文献を典拠に述べているのか調べてみたが、もう少し後の文章に割註で「長阿ごん経」と出ており、『長阿含経』巻3「遊行経第二中」であることが判明した。釈尊が実質的に食中毒が原因で入滅した話は良く知られていると思うが、その直接の原因とされるのがキノコとも肉ともされるが、ここでは「栴檀樹の茸」としている。原典では「栴檀樹耳」としているが、耳は「茸」に通じるので同じものといえる。

ところで、原典ではこの「茸」について、釈尊は「此の耳を以て諸もろの比丘に与うること勿れ」と述べたというが、この部分を篤胤は引いていない。それから、釈尊が説法したことについては述べているが、これは以下の一節のことである。

敢えて大聖智、正覚二足尊、善御上調伏に問う。世に幾ばくの沙門有るや。
    「遊行経第二中」


これに対し、まず釈尊は以下のように答えた。

汝の問う所の如き者、沙門に凡そ四有り、
志趣各おの同ぜず、汝、当に之を識別すべし。
一には行道殊勝なり、二には善く道義を説く,
三には道に依りて生活し、四には道の為に穢を作す。
    同上


偈頌の形で説かれたようだが、この「四の沙門」について、拙僧などは勉強不足で他のところでどのように説かれているか知らないのだが、まずは上記を見ておきたい。この内、一~三については特に問題は無いのだろう。実際、釈尊もそのように説かれている。問題は「四」である。以下のような定義となっている。

内に於いて奸邪を懐き、外の像は清白の如し、
虚誑にして誠実無し、此れ道の為に穢を作すなり。
    同上


一見して見た目は良いのだが、内面には誠実さが無く、よって道のために汚れを作り出すという。具体的に誰のことだったのだろうか?既にこの段階では提婆達多の裏切りは起きており、そのような者を想定していた可能性はある。そして、以上のような説法をしているだけなので、篤胤がいうような珍味に舌を打つといったようなことは書かれていない。この辺は、篤胤の勝手な妄想、或る意味での言い掛かりなのである。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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