余の沙門、婆羅門の如きは専ら戯を嬉ぶと為す、碁局・博奕、八道、十道、百千道に至る種種の戯法、以て自ら娯楽となす。沙門瞿曇、是の如き事無し。
『長阿含経』巻14「第三分梵動経第二」
このように、仏教以外の沙門や婆羅門は、様々な遊戯や娯楽を楽しんでいるが、釈尊はそのような娯楽を楽しんでいないとしているのである。それにしても、訳語の問題だとは思うが、既に「碁局」というボードゲームの話が出ていたり、「博奕(ばくち)」という賭け事の話が出ていることが気になる。「ばくち」というと、「博奕」の他に「博打」という表現もあるが、後者は仏典には見えない。
前者については、以下のような用例も見られる。
若しくは博奕の戯の処に至れば、輒く以て人を度す、諸もろの異道を受けて、正信を毀さず。
『維摩経』巻1「方便品」
さて、上記の通り、『維摩経』には「博奕」の語が出る。上記内容からすれば、博奕のような遊戯の場所に至れば、すぐに人は靡くと言っているのである。確かに、遊戯・娯楽の魅力には、仏教のようなストイックさでは容易に太刀打ちできまい。
ところで、ここで『維摩経』が想定している「博奕」とは、具体的にどのような種類のものを考えているのだろうか。或いは、この一節がどのように理解されているのか気になったので、見ておきたい。
肇曰わく、戯に因りて戯を止める。
『注維摩詰経』
なるほど、こちらの場合、博奕の遊戯をもって遊戯を止めるという。具体的な方法は不明。
博奕の戯の処、輒く以て人を度す、是れ其れ利他なり。博は六博と謂い、奕は碁奕と謂う、此等の戯の処、輒く以て人を度す。
『維摩義記』巻一末
ここで、「博奕」という言葉について、「六博・碁奕」という言葉になっていると指摘されている。調べたところ、「六博」というのは、古代中国に存在した対戦型のボードゲーム(色々と関連品が出土しているようだが、ルールまでは不明)とのこと。ついでに、碁奕も囲碁のことを指しており(調べていた時、字の問題があると分かった。「奕」字を使っていたが、正確には「弈」とのこと。ただし、今の日本では「奕」字を使うので、以下、そのまま使う)、おそらくは、インドでの対戦型ボードゲームが想定されていたのに、漢訳する時、該当するゲームと謂うことで、「博奕」を該当させたのだろう。
さて、当方、実はこの記事を書き始めた時、「博奕」を単純に「賭け事」だと思い記事を書き進めていたのだが、若干の軌道修正が必要になった。そもそも「博奕」とは、ボードゲームを指す言葉であった。もちろん、その勝敗を賭け事の対象にしていたであろうから、結果としては博奕は賭け事だろうが、本来の意味はそこには無い。
また、これが仏典に出る理由は、『阿含経』の場合、単純な否定ということだったのだろうが、『維摩経』の場合、多様な教化方法の一例として用いていることが分かった。具体的な方法までは不明だが、「博奕」を通して、それを止めさせ、仏教に帰入させる何らかの方法があったようである。
ギャンブルやゲームへの依存に対する対応策になるかどうかは全く分からないけど・・・
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