つらつら日暮らし

忽滑谷快天先生『正信問答』に於ける『血脈』論

かつて駒澤大学の学長を務めておられた忽滑谷快天先生の『正信問答』(光融館・大正15年)に、次のような一節が見える。

問ふ 禅宗には授戒といふ有難い法要が行はれて、その御血脈を戴きますと、死んでから善い処へ往かれると承つて居りますが、如何なものですか。
答ふ 御血脈は極楽行の汽車へ乗る切符ではない。従て御血脈を買うても死んでから役にたたないです。
    前掲同著「五十六 授戒」項、159~160頁


これはおそらく想定問答である。だが、実際にこういう意見はあったのかもしれない。『血脈』について、かなり素朴な信仰があり、それがあれば自らの望む場所、つまり極楽などに往生できるということである。それで、拙僧が様々な文献を見た限りによるけれども、これはこの通りである。

それで、忽滑谷先生の指摘は、『血脈』は来世のことまでは守ってくれないというものだった。そこで、以下の指摘がある。

問ふ 左様致しますと、御仏に帰依し奉りさへすれば授戒はなくとも宜しいでせうか。
答ふ 御仏に帰依し奉れば仏戒は身に具はる、それが即ち授戒なのです。御血脈は帰依の浄信を獲た験しとして与へらるるに過ぎない、通俗に信ぜらるるやうに、死んでから後生を善くするために御血脈ではありませぬ。
    前掲同著「五十九 入仏位」項、165~166頁


忽滑谷先生が仰りたかったことの結論は、上記の通りである。いわば、『血脈』は帰依の浄信を獲た証しとして与えられるものであり、通俗的な『血脈』信仰を批判しているのである。忽滑谷先生は、迷信的な信仰を邪信とした。そこには、物品への信仰なども含まれている。

そして、真実に心をもって仏や仏法を信じ、自らの安寧を願うことを「正信」とした。よって、『血脈』を「正信」的解釈をした結果が、上記内容であるといえる。しかし、この見解は現代まで残ったといえるだろうか。流石に極楽に往生することを願う場合は珍しいかもしれないが、どこか死後の安寧まで期待している場合はある。だからこそ、葬儀で渡すのだ。

いわゆる「正信論争」で有名な忽滑谷先生だが、その御見解は今少し丁寧に拝したいものである。

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