つらつら日暮らし

先祖の菩提は自分の菩提

拙僧は、故・澤木興道老師について、色々と申し上げたいことがある。もちろん、拙僧の先師が駒澤大学で学生をしていた頃、坐禅の担当の先生で、ずいぶんと厳しくご指導を受けたご恩があったとしてもだ。その理由は、次のような一節を仰るからだ。

・坐禅ということはいったい何ものか、これはわかったようでもいっこうわかっていない。大きな声ではいえないが、禅宗の坊主でもわからずに死んでしまう者が大方である。(154頁)
・戦争がすんで一年ほどして勲章をもらったが、私は嬉しかった。年金やら恩給やらで勉強ができると思って嬉しかった。だが私は極端な坊主気質で押しとおしてきたから、その後一度もぶらさげたことはない。(156~157頁)
    それぞれ「坐禅による自己の完成」、『曹洞宗布教選書』巻11


この文章だが、2点問題がある。「禅宗の坊主」のことを揶揄しているのだから、聴衆(講演録と思われる)は僧侶ではなく在家信者ということになるかと思うのだが、澤木老師が他の「坊主」を批判すれば、もう澤木老師以外の坊主は聴衆の在家信者から見下され、そして、そのままの「レッテル」を貼られてしまうと思うのだが、どうだろうか。そして、澤木老師の教えを聞いた者は、澤木老師のようなカリスマに就いていたことを鼻に掛け、さも自分が一番であるかのような振る舞いをし、その教えを引用でもしておけば、自分の方が偉くなったような気分で居続ける。

これを、拙僧はどうしようもないほどの増上慢だと批判する。そして、言うまでもないが、弟子も弟子なら師も師だ。師が、本物の坊主であったとして、その者が他の坊主の不甲斐なさを何とかしたいという「慈悲」で批判したのなら、まだ許せるのかも知れない(それでも、不説過戒・不謗三宝戒には反するが)。しかし、これと一緒になって他の「坊主」を批判する在家信者は到底許すことは出来ない。

2つ目についても、最初のと同じ問題があるが、結局澤木老師の「極端な坊主気質」というのが気になる。これにより、非常に固定された「坊主」のイメージが作られてしまった。僧侶にも、勲章が好きな人がいる。それは、どのようにして「カリスマ性」を獲得するかという次元に関わっている。無論、名聞利養を離れるべきだという見解は正しいが、事実上、名利を元に教団が成立したような場合(歴史的事実)もある。よって、「極端な坊主気質」というイメージに振り回される同じ宗門僧侶のことを批判・指導するなら、もっと言い様があったのではないか?と思う。

さておき、こういうことを書いておくと、「甘えるな」とか、先に拙僧自身が批判したような、澤木老師を批判することで、自分を大きく見せようとするような者と同一視されてしまうように危惧されるから、拙僧自身の想いを書いておきたい。この辺、我々からすれば、対象に対するこちらの想いとは、常に「是非相半ばする」のである。是一辺倒、非一辺倒という対象が存在した場合、それは対象よりも、そのように判断する自分の方を疑うべきである。結局のところ、一部分だけを誇張して全面否定というのは、相手に対する評価として異常である。その逆も然りで、結局一部分だけを信じて全面肯定というのは、相手に対する評価として妄信に繋がる。道理に契わなくても、特定の人がいったことだけが正しいことになる。そんな言説は、それこそ「禅的」ではない。

そのような前置きをした上で、拙僧が澤木老師の見解を肯定的に引用するとすれば、以下のような教えを見ることが出来る。

仏教は亡者のためのものだと思っている。先祖の菩提のためだと思っているが、それは自分の菩提のためだということを考えない。菩提は自分のためのものであり、自分が菩提を円満にし成仏するから先祖も成仏するのであります。
    前掲同著


非常に分かりやすく、またここは僧侶も、或いは在家信者の側も忘れやすいところだ。もちろんこれについては、僧俗どちらが悪いということも出来ない。いわゆる仏教が仏教であるための「ビジネスモデル」が、どうしても死者中心に回っていることが原因であり、この死者中心のモデルは、ここ100年程度のことでもない。或る意味、日本に仏教が来たときから「宿命付けられていた」ことでもある。しかし、そのモデルからの脱却は常に模索されるべきであるし、その脱却に、この澤木老師の言葉は、極めて示唆的だ。

大乗仏教は、自利利他円満の功徳を成就することが課題であるとされる。その意味では、死者だけの功徳、或いは生者(自分)だけの功徳を説くのは、反大乗的である。死者への供養が、同時に生者への供養でもなければならない。ちょうど、『修証義』「第5章 行持報恩」で、以下のようにもある。これも解釈が問われる。

我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

本来の出典である、『正法眼蔵』「行持(上)」巻だと、「われら」側と「諸仏」側からの両方の働きがけが説かれるが、ここではむしろ「我等」の方に重きが置かれる。澤木老師が、「菩提は自分のためのもの」というのはこの流れにある教えであると理解できる。その意味で、今日からのお盆(盂蘭盆会)についても、まずは棚経に来てもらい、その僧侶に布施をするという善行を通して、その上でその善行を回向して先祖の菩提を成就していただきたいと願う。

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