ところで、日本語の「ありがとう」は、「有り難し」から来ているともいう。そうなると、意味は「めったにない」「貴重だ」というのが語源となり、そこから、めったにないほどのことをしてくれたので、感謝するという意味の言葉になったという。
仏教で「有り難き」こととして良く言われるのは、仏陀の出世(この世界に現れる)であろう。例えば、以下の一節などはどうか。
諸仏世尊の出世、甚だ難し、優曇華に過ぐ。
『悲華経』巻2「大施品第三之一」
以上の通りなのだが、諸仏世尊の出世は、大変に珍しいことであり、それは優曇華すらも超えているという。「優曇華」、もしかすると見慣れない方もおられるかもしれないので、紹介しておきたい。
諸仏興出楽とは、如来の出現甚だ遇うべからず、猶お若しくは優曇鉢花の数千万劫の時時に乃ち出づ。爾時、群生、優鉢花を見て、各各歓喜し自ら相い謂いて言わく・・・
『出曜経』巻27「楽品第三十一」
『出曜経』という経典では、優曇華は数千年万劫というほぼ、無限の時間の中で、その時々に出るものだから、衆生がその様子を見ると、歓喜するという。これなら、確かにそんな印象を得るけれども、どうも、そこだけでは済まない印象もある。
汝等、当に知るべし、釈迦牟尼雄猛大士、能く無量百千那由他億の諸衆生等をして、涅槃城に住せしむるは、優曇鉢花の出過すること百千億倍なり。
『蓮華面経』巻下
『蓮華面経』は、仏教に於ける黙示録的内容で、釈尊が入滅した後に、僧伽が堕落して、人々への救いが行われなくなる話となっている。しかし、そのような言説の場合、仏教の思想史的観点からは、たいがい、原初の仏陀の権威などを高めつつ、一方で、後代は堕落した、という文脈が構築されやすい。上記の文脈では、『出曜経』の喩えよりも、更に仏陀に会いにくい状態となっている。
優曇花とは、此に霊瑞と言う、三千年に一たび現ず。
天台智顗『法華文句』巻四上
中国天台宗の実質的な開祖である智顗は、優曇華とは三千年に一度姿を現す華であるという。つまり、仏陀の出世も、数千年に一度くらいだというのだが・・・いや、むしろ大袈裟に過ぎる気もする。何故ならば、数千年に一度姿を現すのであれば、もうそろそろ次の仏陀が出て来そうなものである。よって、『悲華経』『出曜経』『蓮華面経』と比較して見ていくと、徐々に「優曇華」の様子が珍しく、得難くなっていく様子が判明する一方で、智顗の見解のように今度は会いやすくなる扱いもあった。
このように、「ありがたさ」という話で仏陀出現を捉えると、本当に「ありがたい」様子と、普通に「ありがたい」様子とがあると分かった。もちろん、現代の我々は、まだ「三千年に一度」という仏陀にも会える見通しがないので、仏陀に会えないのであれば、遺された教えで満足するべきだとはいえる。
その意味では、仏教の教えに触れ、それを学ぶことが出来るだけでも、ありがたいと思うべきなのだろう。
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