つらつら日暮らし

道元禅師に於ける「受戒」と「持戒」

道元禅師の布施観を知るためには「菩提薩埵四摂法」巻を読まねばならないが、布施について端的に「むさぼらざるなり」と「へつらわざるなり」という2つの規定がある。この内、後者の場合は僧侶が布施に対してへつらうことがないことを強調しながら、僧侶と在家人との無関係を唱えている。

つまり、僧侶は在家人によって規定されない。むしろ、僧侶とは在家人が布施とする対象にすることによって、在家人にとって僧侶となるのであり、僧侶の資格・外見には前提がないということも可能である。この問題はまた、別の記事で検討したい。

さて、もう一方の「むさぼらざるなり」という態度に従った生き方を僧侶に求めながら、考察を深めていきたいと思う。

 また云く、戒行持斎を守護すべければとて、また是れをのみ宗として、是れを奉公に立て、是れに依て得道すべしと思ふもまた是れ非なり。ただ衲僧の行履、仏子の家風なれば従ひゆくなり。是れを能事と云へばとて、あながち是れをのみ宗とすべしと思ふは非なり。然ばとて、また破戒放逸なれと云ふにあらず。若しまた如是執せば邪見なり、外道なり。ただ仏家の儀式、叢林の家風なれば随順しゆくなり。是れを宗とすと、宋土の寺院に住せし時も、衆僧に見ゆべからず。実の得道のためにはただ坐禅功夫、仏祖の相伝なり。
 〈中略〉弉公問て云く、叢林学道の儀式は百丈の清規を守るべきか。然に、彼にはじめに、受戒護戒をもて先とす、と見たり。また今の伝来、相承の根本戒をさづくと見たり。当家の口決面授にも、西来相伝の戒を学人に授く。是れ則ち今の菩薩戒なり。然るに今の戒経に、日夜に是れを誦せよ、と云り。何ぞ是れを誦を捨しむるや。
 師云く、然り。学人最も百丈の規縄を可守。然に其儀式は護戒坐禅等なり。昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持す、と云ふ事は、古人の行李にしたがうて祗管打坐すべきなり。坐禅の時何の戒か持たれざる、何の功徳か来らざる。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-1


おそらく、道元禅師の戒観を最も端的に示す場所であり、『随聞記』が嘉禎年中(1235~38年)に示されたとするならば、やや先行する状況で示された以下の文章も、上記の文章に照らし合わせて理解されるべきである。

 とふていはく、この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや。
 しめしていはく、持戒梵行は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず。
    『弁道話』


或る質問者が、坐禅を専らに勤める人が、戒律を厳しく守るべきか?という問いに対して、当然に「持戒」することが仏祖の家風であるとされたが、これば、「未受戒」「破戒」の者に対して、「その分なきにあらず」とされているのが気になる。これは、坐禅をしていれば、それらの者であっても功徳があると理解可能である。

その意味で、先に引いた『随聞記』の一文の末尾で、「学人最も百丈の規縄を可守。然に其儀式は護戒坐禅等なり。昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持す、と云ふ事は、古人の行李にしたがうて祗管打坐すべきなり。坐禅の時何の戒か持たれざる、何の功徳か来らざる」とされることは、要は戒律を護ることよりも、坐禅をすることがそのまま持戒(本文では護戒)であるということ、そしてその功徳が優れていることを表明されている。

だからこそ、この文の冒頭で、「戒行持斎を守護」することだけが、仏祖の条件であるとする者については、「また是れ非なり」とされるのである。つまり、ここでは積極的に戒行を根本に据える考え方、一方で戒律を護らなくても良いと放逸に修行することを肯定する考え方、ともに否定されていることになる。

この一文は非常に捉えづらいが、やや具体性に欠けるので、例えば「現代の僧侶が肉食妻帯をすることをどう考えるべきか?」という問いが出て来るように思う。これは「破戒」ではないのかと詰問する者もあろう。そこで、「破戒」ということから、少し考えを進めてみよう。

 問て云く、実徳を蔵し外相を不荘らん事、実に可然。但し、仏菩薩の大悲は利生を以て本とす。無智の道俗等、外相の不善を見て是れを謗難せば、謗僧の罪を感ぜん。実徳を不知とも外相を見て貴び供養せば、一分の福分たるべし。是れ等の斟酌いかなるべきぞ。
 答て云く、外相を不荘と云て、即ち放逸ならば、また是れ道理にたがふ。実徳をかくすと云て在家等の前に悪行を現ぜん、また是れ破戒の甚しきなり。ただ希有の道心者の由を人に知られんと思ひ、身に在る失を人に知られじと思ふ。諸天善神及び三宝の冥に知見する処を不愧して、人に貴られんと思ふ心を誡るなり。ただ時に臨み事に触て興法のため利生のため、諸事を斟酌すべきなり。
    『随聞記』巻2-17


これは、先に挙げたような「破戒」を肯定しようとする態度を戒めたものである。しかし、この破戒否定の状況について幾つかの例が混入している。まず、「外面は関わらないのだ」として、放逸な生き方をしている場合は、道理に背いており、また「偉いと思われては増上慢」ということは事実だが、増上慢を遠慮しようとして、ワザと悪行を行う場合(造悪無碍)などは、厳しい破戒になるとしている。

では、破戒は一切してはならないのか?ということだが、そうはなっていない。「ただ時に臨み事に触て興法のため利生のため、諸事を斟酌すべきなり。」という一文を見れば明らかなように、その時代、或いは何が法を興隆させ、衆生を利益するのに適当かを考えながら行動すべきであり、この志にしたがうべきなのである。そこで、さらに「持戒」或いは「破戒」について考えてみよう。

たとひ破戒無戒の比丘となりて、無法無慧なりといふとも、在家の有智持戒にはすたるべきなり。
    「三十七品菩提分法」巻


道元禅師は在家によって出家者は定義されないという基本姿勢を持たれるため、この一文が出ることになる。まさに、在家で智慧があり、持戒を実践できている者であっても、出家者には契わない。

釈迦牟尼仏言わく、声聞の持戒は菩薩の破戒なり。しかあれば声聞の持戒とおもへる、もし菩薩戒に比望するがごときは、声聞戒みな破戒なり。自余の定慧もまたかくのごとし。たとひ不殺生等の相、おのづから声聞と菩薩とあひにたりとも、かならず別なるべきなり、天地懸隔の論におよぶべからざるなり。
    「三十七品菩提分法」巻


これは、声聞の行うような持戒、要するに現在の上座部仏教の方々が行われるような持戒は、大乗仏教(=菩薩)にとっては破戒となるということになる。確かに、「持戒」は「六波羅密」の1つであるが、その場合、菩薩と声聞ではおのずと守り方が違うのである。道元禅師にとって、持戒とは以下のようなことである。

しるべし、剃髪染衣すれば、たとひ不持戒なれども、無上大涅槃の印のために印せらるるなり。ひとこれを悩乱すれば、三世諸仏の報身を壊するなり、逆罪とおなじかるべし。あきらかにしりぬ、出家の功徳ただちに三世諸仏にちかしといふことを。
    「出家功徳」巻


これは、頭を剃り袈裟を着ければ、持戒をしなくても、無上なる大涅槃の功徳によって、自ら涅槃に入ることを示した一文である。ここには、道元禅師による「袈裟」への信仰がある。

或る時比丘尼衣を著して、以て戯笑を為しき。是の因縁を以ての故に、迦葉仏の時、比丘尼と作りぬ。時に自ら貴姓端正なるを恃んで憍慢を生じ、而も禁戒を破りぬ。禁戒を破りし罪の故に、地獄に堕して種々の罪を受けき。受け畢竟りて釈迦牟尼仏に値ひたてまつりて出家し、六神通阿羅漢道を得たり。是を以ての故に知りぬ。出家受戒せば、また破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得。
    「袈裟功徳」巻


これは蓮華色比丘尼という者の話であり、戯れに袈裟を着けたが為に、その功徳によって仏道を得るまでに至った者である。ここで道元禅師は袈裟の功徳を説かんが為に、この比丘尼の持戒を問うていない。むしろ、破戒であっても得道するとしているのである。この「袈裟功徳」巻や先の「出家功徳」巻は、比較的晩年に書かれた著作を集めたという12巻本に入る『正法眼蔵』だが、内容は極めて功徳を信仰するようなところがあるが、一貫しているのは出家者の優位性ということである。そこで、『随聞記』で挙げた持戒を問わない態度は、この晩年にいたってさらに強調されて、まさに出家・受戒・搭袈裟、という三大要素こそが、僧侶の本懐であり、これによって成仏できるという確信に到るのである。その意味で、道元禅師が「戒体」を問わないのは当然でもある。

唐土も我が朝も、先代の人師、戒を釈するの時、詳しく菩薩の戒体を論ずるは、甚だもって非なり。体を論ずる、その要や如何。如来世尊は、ただ戒の徳のみを説かれたまいて、得るや否やなる、体の有無を論じたまわざりしなり。ただ師資のみ相い摸して、即ち得戒するのみ。
    『出家略作法』奥書


『出家略作法』は道元禅師が興聖寺で出家する者に対して行っていた作法をまとめた著作であるとされているが、その末尾に以上の文章がある。「戒体」というのは、一般に仏道入門の最初の受戒の時から、受戒者に発得し、仏道修行の基礎的な戒律護持をなすべき主体として、主体性を尊ぶ仏教においては根本的なもの」という見解がある(新井勝龍先生「道元禅師における戒体の思想」『宗学研究』17、所収)。なお、この場合当然に「本体」としての「戒体」を意味せず、これは大乗仏教的な「仏心」を意味するのである。しかも、この仏心に帰入することで実践的な意味が撥無されると同時に、実践以前に「主体」が決定されることを否定するものである。つまり、戒体を論ずることを否定するというのは、あくまでも実践しているその過程そのものが、体を形成するためであり、その時我々に認識されるのは、「効果=徳」だけなのである。

要するに、「戒体」を取り出して拙僧が言いたいのは、戒を実践するということは、破って罰が当たるという「防非止悪」ではなくて、ただの脱落身心だということである。脱落身心にあって、戒を受持するということが、まるで「閻魔帳」にその者の行為が記録されるということにならないことは明らかである。そうではなく、そこにはただ、行為の継続だけがある。行為の継続を否定するものは、一切が淘汰されていくため、ここで僧侶の行動は倫理的にならざるを得ないというのが、拙僧が道元禅師の教えを学んで得た、「戒律護持」の意味である。必要なのは、「受戒」であり、そのまま「受=持」であるとき、現実には、倫理的な生き方をするということである。そして、それは「体」そのものが客観性を持たないため、誰かからとやかくいわれる問題ではない。しかし、あまりに自らの行為の継続性が得られない場合には、その都度に行為を革めなくてはならないというだけである。

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