迦葉菩薩、仏に白して言わく、「世尊、若し比丘有りて守護を離れ、独り空閑・塚間・樹下に処せば、当に是人を説いて真比丘と為すべし。若し守護者に随逐して行くこと有れば、当に是の輩を是れ禿居士と知るべし」。
『大般涅槃経』巻3「金剛身品第二」
おそらくだが、こういった修行者の方が世間一般的には「受けが良い」ような印象がある。しかし、大乗経典である『大般涅槃経』では、そういった評価をしていない。
仏、迦葉に告ぐ、「是の語を作して、禿居士と言うこと莫れ。
若し比丘有りて所に随いて至る処に、供身し趣足し、経典を読誦し、思惟坐禅し、来たりて法を問うこと有れば、即ち為に、いわゆる布施、持戒、福徳、少欲知足を宣説す。能く是の如き種種の説法すると雖も、然る故に師子吼を作すこと能わず、師子の圍遶する所と為さず、非法の悪人を降伏すること能わず。是の如くの比丘、自利及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩、懈怠懶堕す。能く持戒して、浄行を守護すると雖も、当に知るべし是の人、能く為す所無し。
若し比丘有りて供身の具、亦た常に豊足し、復た能く受くる所の禁戒を護持し、能く師子吼し、広く妙法、謂わく修多羅・祇夜・受記・伽陀・優陀那・伊帝曰多伽・闍陀伽・毘仏略・阿浮陀達磨を説く。是の如く等の九部の経典を以て、他の為に広説し、諸衆生を利益安楽するが故に、是の如き言を唱う、『涅槃経中、諸もろの比丘を制して、応に奴婢、牛羊、非法の物を畜養すべからず。若し比丘有りて、是の如き等の不浄の物を畜えれば、応当に之を治すべし。如来、先づ異部の経中に説くべし、比丘有りて是の如き等の非法の物を畜わえれば、某甲国王、如法に之を治し、駆りて還俗せしむべし』。
若し比丘有りて、能く是の如き師子吼を作す時、破戒の者有りて、是の語を聞き已りて、咸く共に瞋恚し、是の法師を害す。
是の説法者、設い復た命終するとも、故に持戒し、自利利他すると名づく。是の説を以ての故に、我れ国王、群臣、宰相、諸もろの優婆塞、説法人を護ることを聴す。若し、正法を護ることを得んと欲する者有れば、当に是の如く学すべし。
迦葉、是の如く破戒し護法せざる者は、禿居士と名づく。持戒に非ざる者、是の如くの名を得ん」。
同上
さて、まず最初に挙げた文章からすれば、「真比丘」の対義語として「禿居士」を挙げている。ただ、意味としては、世間からの布施などに機敏に対応し、独処での修行をしていない比丘を「禿居士」と呼んでいる印象を得る。そこで、後の文章を見てみると、この辺が良く分からなくなるのだが、基本は「持戒」ということになるのだろうか?
まず、世尊が問題にした2種の比丘について、最大の違いは一見して「持戒の有無」になりそうだが、実は前者も「持戒」「浄行を守護」という態度はしているので、「破戒」では無い。ただ、この者は「師子吼」が出来ていないことになる。後者の比丘は「師子吼」出来ているのである。
よって、2種の比丘の違いはそれである。更には、後者の比丘はその「師子吼」によって「破戒の者」から怒りを浴びて、殺害されてしまったのである。要はその違いである。それで、最後の「禿居士」は、破戒する者と、護法せざる者との両方に掛かるように、用いられている。この辺が分かりにくいのだが、結局「破戒の比丘」が対象に入っているので、中国では比丘に対して「禿居士」と用いる事例が見られたのである。
これで、だいたいのところを理解した。
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