つらつら日暮らし

ハロウィンの遊びについて

ハロウィンといえば、東京の渋谷駅周辺での仮装した人々のどんちゃん騒ぎが例年報じられるところであるが、昨年は新型コロナウィルス感染症のこともあり、かなり抑えた印象であった。今年も、同感染症の影響は残るが、ここに来て日本国内の新規感染確認者数は激減しているので、いてもたってもいられずに騒ぎ立てる人がいるのかもしれない。

それで、今日は、我々が正しく理解していないかもしれないハロウィンの遊びについて採り上げてみたい。

ハロウイーン夜会でよくやる遊戯は、大きな林檎を盥に水に浮かして手を用ひないで林檎を食べた者は、幸福が来るとか、二口食べると自分の思ふ人と結婚が出来るとかと笑ひ興ずる様のこと。夫れから林檎を天井から糸でつるして同様の遊びもする。火中に胡桃を投じ、其の胡桃が漸々燃いて灰になれば、其の人は幸福、胡桃は跳ねて外に飛んで仕舞へば其の人は幸福でない。指輪、指套、十銭銀貨、鍵などを入れて菓子を拵へ、之れを分配する。而して指輪の這入つてる菓子を取つた者は、自分の好きな人と結婚が出来る、指套の這入つた菓子に当つた者は裁縫師になる、十銭銀貨の入つてる菓子を取つた者は富貴になる、鍵の這入つてつ菓子を食べたものは、すべての人の心を此の鍵で開けることが出来るのだ、などと言つて遊ぶのだ。
    田村哲『外遊九年』目黒書店・明治41年、157~158頁


先の記事で引いたのと同じ田村哲氏の見解である。ハロウィンの夜会では林檎や菓子などを使った遊びがあり、本来なら、こういうことをして楽しむものだったようである。いうまでもなく、上記内容は一種の食べものを使った占いである。ハロウィンには本来、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的意味合いもあるとされるから、収穫した食べものを使い、神霊などに良き道筋を示して貰うというのは、あり得る話である。

いつもいうことだが、占いの良いところは、人間の余計なはからいが入らないことである。結果の善悪にかかわらず、それらは神による「お示し」なのであって、後はそれに人間が合わせるだけである。人間の幸福なる未来を、人間側に置けば様々な苦悩の原因となる。しかし、神の側に置けば、人間はその結果を謙虚に受けるだけである。

悪い結果が出れば、慎みを持って生活し、更なる努力を続けるのである。無論、良い結果が出ても慎みを持って生活し、はしゃぎすぎないことが肝心である。

何せ、人間ではない神が決めたことなのだから、人間同士がそれによって羨んだり、争ったりすることがない。神が決めたことの一番の利点はそれである。

しかも、ハロウィンは毎年来るわけで、この占いも毎年行っていたのだろう。それもまた良いことだ。一つの結果に執着しなくて済む。

ところで、ハロウィンのコスプレについてだが、あれは本来、子供たちが悪霊などに変装して、様々な家でお菓子を貰う=供養して貰うことでその場を立ち去る、この一連が悪霊退散を意味する行事だったはずだ。日本なら、節分の豆まきに相当する。しかし、ただ集まって騒ぐ現状には、悪霊退散という宗教的意味が出てこない。よって、ここ数年の渋谷で必要なのは、「お菓子」なのかもしれないと思うようになった。とりあえず、貰ったら帰る、みたいな。

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