もし不安居は、仏及菩薩にあらず。仏祖の児孫なるもの、安居せざるはなし、安居せんは、仏祖の児孫としるべし。安居するは、仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは、仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり。いま泥木・素金・七宝の仏菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち、住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月つとむべし。
『正法眼蔵』「安居」巻
これまで、「住持三宝」というと、『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻や、『仏祖正伝菩薩戒作法教授戒文』などを用いて考察される場合がほとんどであったが、以上の文脈も重大である。なお、これまで一般的に用いられていた解釈は以下の通りである。
住持三宝 形像・塔廟は仏宝なり。黄紙・朱軸は所伝の法宝なり。剃髪・染衣・戒法・儀相は僧宝なり。
「帰依仏法僧宝」巻
ここでは、「住持三宝」について、「仏宝」は仏像や仏塔でも良く、「法宝」は経巻(経本)で良く、剃髪し御袈裟を着け、戒法を護る姿が僧侶であるとされている。
天上を化し人間を化し、或いは虚空に現じ或いは塵中に現ず、乃ち仏宝なり。或いは海蔵を転じ或いは貝葉に現ず、物を化し生を化す、法宝なり。一切の苦を度し、三界の宅を脱す、乃ち僧宝なり。是れ住持三宝なり。
『教授戒文』
こちらは、先に引いた『正法眼蔵』本文よりも、やや理念的ではある。とはいえ、『教授戒文』自体が、高い宗乗眼から悟りの世界の戒文解釈を説くものだと拙僧は理解しているから、この程度の理念性は余り問題にはならない。
そこで、「安居」巻に於ける「住持三宝」である。こちらはそもそも、「九旬安居」を行じる存在が、仏であり菩薩であり、仏祖の児孫であるとしているのである。更には、その「安居」の行に於いて、仏祖の身心・眼睛・命根が現成するのである。これらはシステム論を用いれば、行為に即して二重作動的に現成されている諸事象という記述になるであろう。
然るに、問題は、「いま泥木・素金・七宝の仏菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち、住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり」としていることである。確かに、「安居」が行じられている叢林には、諸仏像が安置されているが、道元禅師はそれらの仏像もまた、「安居三月の夏坐」を行っており、それこそが「住持仏法僧宝の故実」であるとしたのである。
仏像はただ安置されているのではなくて、ともに修行をしているのである。
ここまで見ると、或る故事を思い出す。北陸にある厳しい修行道場(大本山永平寺ではない、別の僧堂)で、或る修行期間中に、誰も真実を会得しなかったときがあった。その時、当該僧堂の堂頭老師は、僧堂に安置されている聖僧に対して苦言を呈し、役割を果たさなかったと言って擯出させたという。有り体にいえば、聖僧を廃棄したのであった。
この一事について、以前は不思議な話だと思っていたが、なるほど、この「安居」巻の記述に従って行われたものであったかと合点した。やはり、師家の御老師からの御慈慮はただただありがたいものだと思う。
そもそも、道元禅師は仏像であっても「仏宝」になることは、『正法眼蔵随聞記』でも仰っていることである。今更に驚くまでもない。我々はもう少し、広い心と視点で、仏道を学ぶべきなのである。そして、仏像もまた、ともに安居しているのだから、手を合わせ、御供養申し上げるのは当然である。曹洞宗で仏像もちゃんと重んじるのは、それが住持三宝だからである。
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