或る時、建礼門院御受戒有るべしとて、上人を請じ申されて、御身は母屋の御簾の内に御座して、御手計り指出し合掌して、上人をば一長押さがりたる処におき奉りければ、上人云はく、高弁は湯浅権守が子にて下もなき下臈也。
然れども釈子と成りて、年久しく行へり。
釈門持戒の比丘は神明をも拝せず、国王・大臣をも敬せず、又高座に登らずして戒を授け、法を説くは、師弟共に罪に堕する也と経に誡められたり。
是法を重くし、いるかせにせざる故也、身をあぐるに非ず。
かゝる非人法師をも御崇敬候へば、利益ますます多く、いやしみ眇直み給へば、大罪弥深し。
いかに仰せ辱けなくとも、本師釈尊の仰せを背きて、諂ひ申す事は有間敷候。
加様にては益なくして罪あるべく候。誰にても貴敬し思食し候はん人を御請じ候ひて、御受戒あるべしとて、頓て出で給ひければ、女院、驚き思召して、急ぎ御簾より外へ出でさせ給ひ、様々に悔み申し給ひ、高座に居ゑ奉り、信仰を致し、御受戒有りけり。
其の後は、殊に上人を貴び給ひて、最後まで深き師檀と成りおはしましけり。
『明恵上人伝記』巻下
建礼門院とは父が平清盛であり、高倉天皇の皇后となり、安徳天皇の母となった女性である。つまり、平氏政権時代には大きな権力を振るった人であったが、上記の逸話も、もし事実であればその時のものかと思われる。
それで、この話はどういう内容かというと、建礼門院が受戒をされようと、明恵上人を戒師に拝請した。しかし、ご自身は建物の中にいて、手だけを御簾から出して合掌する様子だったという。
しかし、明恵上人はその様子を見て、このように述べた。「自分自身は、湯浅権守の子供であり、低い身分の出身だ。しかし、釈子となって永年が過ぎた。仏教で持戒する比丘とは、神明も拝しないし、国王や大臣を敬うこともない。そして、高座に登らずに戒を授けて、法を説くのは、師弟ともに罪に陥ると経文にはある。これは法を重くすることなのであり、自分自身の名誉のためなどではない。
このような世捨て人(上記引用文の非人の意味。江戸時代に於ける身分制の中での意味と、単純な相応はしないため、扱いを注意されたい)の法師ではあるが、こういう者だからこそ、敬えば利益が大きく、卑しく思えば、罪が深いのである。もし、こういう者が嫌なのであれば、誰からも敬われるような者を拝請し、受戒されるのが良かろう」といって、すぐに出て行ってしまった。
その言葉などに驚いた建礼門院は、急いで御簾から出て明恵上人に対して懺悔すると、すぐに高座に登っていただき、信仰心を示して受戒されたのであった。その後も、上人を大変に敬ったという。
気になるのは、ここで明恵上人が「経文」を典拠に、高座に登ることを述べたことだが、以下の一節が該当する。
なんじ仏子、常に教化を行じて、大悲心を起こせ。檀越貴人の家に入り、一切衆の中にて、立ちながら白衣の為に説法することを得ざれ。応に白衣衆の前では、高座の上に坐すべし。法師比丘、地に立ちて四衆の為に説法することを得ざれ。若し説法するの時は、法師の高座、香花供養し、四衆の聴者は下坐して、父母に孝順するが如し。師教に敬順すること、事火婆羅門の如くせよ。
その説法の者、若し如法にして説かずんば、軽垢罪を犯す。
『梵網経』巻下「第四十六説法乖儀戒」
以上である。明恵上人は普段から『梵網経』をもって弟子達を教導していたので、この教えも当然に注意していたことであろう。なお、個人的にはここで「事火婆羅門」のことが出ていることを気にしていたことを思い出した。また、何かの時に記事にしたいと思うが、説法を行う側も、聞く側も、こういった「作法」があることを知って行うのと、知らずに行うとでは、その重みは全く違う。
近年はもちろん、人の平等さが前提になる事態ではあるが、説法という現場では、上記の様子こそが平等だと知る必要があると思う。
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