谷本の問題意識は、何故に禅(坐禅)を中心としているはずの禅宗(特に臨済宗の記事が多い)に於いて、授戒会を行っているのか?という問題意識の解決を目指して考察したものである。その辺の事情は以下の通りである。
勿論授戒会は固より禅家独特のものではない。爾余の仏教諸宗派、只独り真宗を除いての外には、大概これを行ふ様で、寧ろ禅宗の方では実は却て遙に後れて他の真似をしたらしく見受けられる様でもある。更に言葉を改めて申さうならば、元来禅宗なるものは直指人心見性成仏と云ふ事が眼目である。それが仏心宗の仏心宗たる所で、所謂大事悟了の外は何も無い筈である。禅宗も亦仏教であれば、戒も決して無用とは謂はぬだらう。
前掲同著・249頁、漢字やかなを現在通用のものに改める
なるほど、谷本の問題意識はこの辺にあったものか。要するに、禅宗とは仏心宗であるということであり、仏心を悟る見性が重視されるべきで、そこに、戒律がどう関わるのか分からない、ということになるだろうか。また、それは谷本が取材した当時の禅僧の意見でもあったらしい。
或る人を介して、臨済宗大学々長池上恵澄師(天授庵柏蔭老師)の教を乞ふたところ、その回答には、戒の事は当妙心寺派では左程精しく穿鑿はしない、アレは寧ろ建仁寺派などの方には昔から戒学として却つて喧ましいものがあると云はれたさうな。
前掲同著・251頁
臨済宗でも派によって戒学への距離が異なるようである。ここで建仁寺派のことが出ているが、既に拙ブログでも【江戸時代の学僧による栄西禅師への評価について】の記事で論じたことがあるように、確かに、江戸時代に曹洞宗の面山瑞方禅師から伝戒されたという事例もあり、また、伽藍法としては明庵栄西禅師の流れとなるが、戒学を重視したというのは、その通りかもしれない。
それから、谷本は天台宗・浄土宗の諸記録を概観しつつ、以下の結論を導いている。
要するに授戒会は禅宗に於ては実は固有のものではないのである。呑却て浄土宗の方などで最も盛に行はるゝ様で、それは全く同宗祖法然上人(明照大師)が夙に叡山に於て受戒せられたるに由るらしい。
前掲同著・252頁
このように、浄土宗の受戒・伝戒について谷本は調べたようだが、その結果、禅宗と浄土宗の受戒について比較したものの、両者の関係については、どうも良く分からなかったらしい。少なくとも、日本の禅宗の伝戒は、中国禅に由来するため、日本の天台宗由来の浄土宗とは、その系統が異なっていると明らかにしている。
結論としては、以下の一節を見出す事が出来た。
禅宗の授戒会の由来若し果して右述ぶる所の如しとするならば、其処に起つて来る疑問は、禅宗又何故に斯かる授戒会などをするのかと云ふ一事である。禅宗として江湖の参禅者の為に大接心会を開くなどは最も当つて居やう。然かも一般俗家の為に授戒会を催すに至つては、或は一見不相応と思はれはせずや、これが自分の曾て懐いた疑問である。此に於て授戒会の性質を一言する必要がある。蓋し授戒会は実に一般俗衆の為に行はるゝもので、昔よりの所謂戒会、伝戒会ではない。試にそれを他宗の行事に比較して申さうならば、戒会は伝法灌頂の如く授戒会は結縁灌頂の如しである。知らず所謂結縁灌頂なるもの亦初よりあるか否か、授戒会なるもの初よりあるか否か……
前掲同著・255頁
結局、谷本の結論は、以上の通りである。要するに、禅宗が参禅者のために接心を開くのが、本来は最も当たっているものだが、それ以外の一般の在家信者のために授戒会を開くのは、不相応ではないか?という疑問を持っていた。しかし、谷本は授戒会の性質を一言して、要するに古来より行われた戒会・伝戒会では無いとし、それらは真言宗系による伝法灌頂に該当し、授戒会は結縁灌頂のようなものではないか、としているのである。
まずは、上記の通り、谷本の疑問と、その解決を見てきた。だが、拙僧からいわせれば、最初の谷本自体の疑問、禅宗に戒が当たらないという立場が問題であると思う。確かに、曹洞宗でも「禅戒一如」などの用語が見られ、道元禅師・瑩山禅師の両祖の著作に、それを意図する文脈を見出すことも可能である。しかし、実態としては、「禅戒双伝」だったのではないか?と思わせるのである。谷本の立場では、それに繋がりそうもない。よって、拙僧からは残念な印象を得るのである。
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