第二には開蓮忌の法事である。釈氏要覧の中に見王斎と名けて、死後三日目に必ず僧侶を請して、追福を修すべきことを説いて居る。
茂木無文老師『葬式・法事の仕方』国書刊行会、48頁
以上の文章から、茂木老師は『釈氏要覧』を典拠に指摘していることが分かる。そこで典拠の文を見てみると、次の通りである。
●三日斎
北人は亡せて三日に至れば、必ず僧を斎し、之を見王斎と謂う。
法苑に云く、「唐の中山郎元休は、冥報拾遺記を撰して云く『北斉の仕人、姓を梁とし、将に死せんとして、其の妻に告げて曰く、『吾れ生きて愛する処の奴、并びに馬、皆な為に殉ぜよ』と。既に死す。家に土嚢を以て奴を圧す。死して第四日に至り、奴は魂を還して言く、「地府に郎主を見る。鎖械せられて人に衛られ、某に謂て曰く、『我れ謂う、同じく死せるなり。你をば喚ばしめ、故に你の来るに嘱するを得たり。今、各、自ら受くれば、必ず你を放して廻らさん』。
言い訖て駈けて府に入る。奴、屏外に於いて窺い聞くに、官、衛者に問うて曰く、『昨日は、多少の脂を圧し得たるや』。
対えて曰く『八斗』。
官、曰く、『今日、石六を圧せ』、尋いで便ち牽き出す。
明旦に至って、喜色有るを見たり、奴に謂いて曰く、『今日、必ず告げて、你を放たん』。
既に府に入り、奴、復た窺い聴くに、官、問う『脂を圧すや』。
衛人、対えて曰く、『此の人、死して三日を経たるを以て、妻子、斎を設くる。衆僧、唄を作し、経を転ず。鉄梁も輒ち折れるが故に、圧しても脂をば得ず』。
官、『善』と称し、尋いで告げて放還す。乃ち嘱して曰く、『伝えて妻子に語れ。汝が斎を営み追薦したるに頼り、大苦を免るるに得たり。猶、未だ全脱せず。更に告げて、斎を営み、福をもって相い救い、慎しんで殺生すること勿くして祭奠し、又た、食するを得ずして、但だ吾が罪を益せよ」』」と。
『釈氏要覧(下)』「雑記」、原典に従い訓読
だいたい、こんな内容のようである。つまり、この北斉という国で、国王の家臣をしていたと思われる人が、自らが死ぬという時、馬や使用人(現代的視点からは、身分差別になる状況だが、それが本題ではないので、ここでは注意のみ促して原文を訳す)に対して、殉死をさせるようにと、妻に言い残したというのである。ところが、この使用人の1人が4日後に生き返ったという。理由は、冥界に於いて、この家臣から様々な言伝をされたためのようである。具体的な内容は、どうもこの家臣、余り良い状態で冥界に行ったのではないようで、端的にいえば、苦しみを繰り返すような場所に行ったようだ。そのため、酷い扱いを受けていたが、その時、冥界で家臣と使用人とが出会い、そこで、家臣は苦しんでいた。
しかし、残された家族が、死後三日後に供養を営んだため、その苦を逃れることが出来た。そして、家臣は使用人に対し、そのことを生き返って告げて、更に、全ての苦を逃れるために、供養を続けるように促すことを依頼したのである。よって、3日目の供養というのは、死後の苦しみを抜くために行われるものであり、その後の供養も、それだけで説明されてしまうのである。
現代的には、こういう「物語」自体が、中々共有されないが、死後の苦しみというのは、世間に生きる人達が通常に抱く死への恐れと相俟って構築された世界観だと思われ、それに対し、有力な解決法としての供養が提示されていたのである。この事を否定することは出来ないし、本当なら現在でも有効なのである。
ここで行われている供養は「唄を作し、経を転ず」とあるから、恐らくは声明(念誦が主であろう)と、読経(転読ではなくて、単純に読経である)したと思われる。よって、現状行っているような喪儀法にも近いし、法事にも近いけれども、それらを総じて行うことに意味があると思う。
こういう話も、事実として語ろうとすると、色々と問題があると思うが、何かの折りにそれとなく伝えることはあっても良いと思う。「かつてはこう言われていました」という文脈である。どうしても、明治時代以降の近代仏教学の悪弊で、我々はこういう功徳について、どこか懐疑的である。しかし、例えば東南アジアの仏教はどうだろうか?あの地域は功徳が当然にあると思っている。同じく、モンゴルはどうか?チベットはどうか?現状、日本の状況は、まさに異常である。良く、僧侶の堕落を異常だと説く人がいるが、功徳を信じていない人が多数という段階で、結局は在家もまた堕落しているのだ。目くそ鼻くそを笑っても仕方あるまい。
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