冬至の小参。
天寒く人寒く、針頭鉄を削し、滴水滴凍、画餅飢えを充たす。
丹霞、木仏を焼けば、餓狗、枯髏を齧り、鏡清、単を展かざれば、胡餅裏に汁を覓む。
従上の老漢、既に把うるも定まらず。未だ免れず、時に随い、節を逐うことを。便ち陰消じて陽の長きを見る。小去大来、暖律飛灰し、繍紋線を添う。
只だ無陰陽地の如きは、還た遷変の有らんや、也た無しや。
拄杖を卓す、
月、彎弓に似たり、少雨多風なり。
『虚堂和尚語録』巻1
虚堂智愚禅師(1185~1269)は中国南宋時代の臨済宗で活動した僧侶であり、その語録は日本にも伝来し、広く読まれたようである。その虚堂禅師が、冬至に小参をしておられるので、見ていきたい。
内容は、天も人も寒く、まるで針で鉄を削るように、我々の表面に寒さが染みてくるけれども、かえって画餅で飢えを充たすように仏法が働いている。また、丹霞天然が木仏を焼けば、餓えた犬がドクロを齧り、鏡清道怤が単を展かなければ(この一話は、『聯灯会要』巻22などに見える)、胡餅の中に汁を求めるようなものだという。
この2人の老漢は、仏法を捉えても、定まらない。未だ、時節を追うことを免れていない。だが、今日という日は、陰が極まり、陽に繋がっていく。つまり、徐々に暖かくなるための寒さの極まりである(が、これが、時節を追うということだ)。
しかし、時節を追うことを止め、陰陽が無い境地では、遷り変わりという事象が起きるだろうか?虚堂禅師は、杖をドンと一突きして、述べた。月は曲がった弓のようであり、わずかに雨が降り、風が吹いている、というその日の様子を述べた。つまり、陰陽という相対的な視点を破っても、そこには、遷らざる遷移があることを示したのである。
重要なのは、冬至とは陰陽思想で読み説くことが多いのだが、禅としては陰陽を超えたところでの実相を観取しなければならないのである。
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