在家血脈授与式
堂頭、先づ本尊前に焼香三拝して、登坐す。侍者等、手磬に随て、受者と同く三拝して著坐。堂頭、先づ洒水して、道場を浄む。垂誡して、受者をして心開意解せしむ。
次に焼香合掌して、黙請して云く、
南無仏陀耶、南無達磨耶、南無僧伽耶、南無祖師菩薩〈三返〉
次に尺を鳴すこと二下、
善男子・善女人、夫れ帰戒を求んと欲せば、先づ当に懺悔すべし、二儀両懺有りと雖も、先仏の成就したまふ所の懺悔の文有り、罪障尽く消滅す、我が語に随て之を唱ふべし、
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、
従身口意之所生、一切我今皆懺悔〈三返〉
次に洒水潅頂す、
汝等已に身口意の三業を浄除して、大清浄なることを得たり、
次に仏法僧の三宝に帰依し奉る、三宝に三種の功徳有り、所謂一体三宝・現前三宝・住持三宝是れなり、一帰依の時、諸功徳円成す、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、
帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊、
帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟〈三返〉
衆生無辺誓願度、煩悩無量誓願断、
法門無量誓願学、仏道無上誓願成、
仏法僧に帰依する時、諸仏の大戒を得ると称す、此は是れ千仏の護持したまふ所、曩祖の伝来したまふ所なり。
我、今、汝等に授く、汝等今身従り仏身に到るまで、此の事能く持や否や〈三問〉
受者答えて云く、能く持つ〈三答〉
是の事、是の如く護持すべし、
次に血脈を授け唱えて云く〈受者、偈の中、頂戴三拝す〉
衆生仏戒を受れば、即ち諸仏の位に入る、
位大覚に同ふし已る、真に是れ諸仏の子なり〈三返〉
次に普回向、
聖像前三拝して退く。
訓読は原本に従う
このように全文を翻刻し、読んでみると、色々と理解出来ることがある。まず、最初の部分は「得度式作法」よりも、『仏祖正伝菩薩戒作法』に似ているが、懺悔以降は「得度式作法」に近い印象であり、更にはこれが、現在の「檀信徒喪儀法」の授菩薩戒作法に及んでいることも分かる。ただし、異なる部分もあって、三帰依までは同じだが、その後、「四弘誓願」が入るのは、他の宗門の授戒作法にほとんど見られない。
さて、今回見ていて改めて驚くのは、「仏法僧に帰依する時、諸仏の大戒を得ると称す」のところであろう。本来、「諸仏の大戒」とは、『梵網経』由来の「十重禁戒」に当たると思うのだが、本書では表面上、その授与は行われていない。ただ、三帰依が、諸仏の大戒を得るという因果関係は明示されているので、そこに意義を見出すべきであろうか。
その際、参照されるべきは、「三宝」にある「三種の功徳」の結果示されている「一帰依の時、諸功徳円成す」であろう。つまり、三帰依を一回行えば、諸功徳が円成するので、その中に「諸仏の大戒」を得ることもまた前提されているのだろう。よって、三帰依のみで「三聚浄戒」「十重禁戒」などが円成するので、後は『血脈』を授与するという流れとなっている。
『血脈』授与以降の作法は、特段難しいことはない。『梵網経』巻下の「衆生受仏戒」偈を唱えて終わる感じである。
それから、他に気付いたことは、「諸仏の大戒」を授与した後で、「我、今、汝等に授く、汝等今身従り仏身に到るまで、此の事能く持や否や」と戒師が唱えるが、ここで「汝」が「汝等」になっており、複数人の受者を前提にしている。よって、当作法は、多くの衆生に手際良く『血脈』を渡すための作法だと理解して良い。
転ずれば、現代的に使うのであれば、「因脈授与」になってしまう気がする。こういっては何だが、やっぱり「説戒」は大事だと思うのだ。
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