なお、後にドイツの社会主義者・クララ・ツェトキンが国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱し、この日が設けられたという。
女性に対して、政治的な権利を与えないというのは、かつては常態化しており、その改善への欲求は、人権思想の伸張とともに、当然の如くに興ったのである。
ところで、良く、仏教は平等の教えを持っている、等といわれるのだが、既に諸研究者によって明らかにされた通りで、女性問題については、決して平等であったとはいえない。むしろ、女性差別的だったのが仏教であり、しかも、その淵源は、釈尊にまで帰せられているが、事実かどうかの判断は困難である。
ただし、これは経緯として申し上げれば、仏教とは元々、男性が中心の宗教であった。しかし、女性であっても、救われたいと願い、自ら出家することを希望する場合もあり、そこに対応したというのが事実であろう。ただし、男性が中心となっていたからか、仏教では古来より、このような教えが伝えられていた。
比丘尼八敬法
一、百歳の尼、初夏の比丘の足を礼すべし。
二、比丘を罵謗することを得ざれ。
三、比丘の罪を挙げ其の過失を説くことを得ざれ。
四、僧より戒を受くべし。
五、僧より罪を出すべす。
六、半月、教授を求むべし。
七、僧に依りて安居すべし。
八、僧に依りて自恣すべし。
『律宗新学名句』
これは、女性の出家者(比丘尼)に対する制限を指しており、明らかに男性の僧侶(比丘)が優位であることを示している。一~三については、比丘尼は比丘に対して様々な配慮をしなければならないことを示している。一などは、比丘尼で年配であり、当然に修行も多く重ねている者であっても、入門したての比丘に対して礼拝しなければならないという。
また、四~八については、仏教上の諸作法について、比丘尼は比丘に依存する形で行うべきだということである。四などは、比丘尼が独自に弟子を取ることを認めていないという風に見ることも出来る。「戒」を受けると、そこに師弟関係が発生するわけだが、比丘尼は比丘尼から戒を受けることを認められていないのである。このことがあってか、どうも、曹洞宗でも或る時期まで、比丘尼が弟子を取ることが出来ないという風に思われていたような印象がある。制度でもそれを定めていたかは、不勉強で分からない。
まぁ、結局、比丘尼は万事、比丘から指導を受けて行動するように、と定めていたわけである。漢訳の律典には、このことについて多く触れるので、いわゆる北伝仏教では当然の決まりとして認識されていたはずであり、そういう文脈の下で、出家者に於ける男女平等の考えなんて、出るわけが無いのであった。
『緇門警訓』巻3「尼八敬法」項を見ていくと、良く言われているところの、仏陀釈尊が、「正法が500年で滅するから女性の出家は認めない」というコメントが引用されており、そこで、先に引いた「八敬法」が説かれ、それで初めて出家を認めたという経緯になっている。
もちろん、これを釈尊自身が定めたかどうかについては、否定的な研究者もいる。ただし、事実として、伝統的にこの言説を保持してきたという歴史は存在する。とはいえ、伝統的に仏教は比丘尼への差別を行ってきたのだから、それが仏教の本質だと言って、開き直るような真似はすべきではない。一方で、理想論的に、釈尊の言行のごく一部を拡大的に用いて、平等が正しいなどと主張するのも間違っている。
本当に平等が正しいのなら、現実に差別が行われてきた、或いは行われているという事実すら起きないはずである。だが、現実に存在する以上、平等の正しさは、差別排除に寄与しない。よって、差別が存在したことを認める認識を持ち、その上で、差別が排除されねばならぬとの考えに基づいて、どのように差別を無くしていくのかを、現実的に考えていった方が良いと思慮する。
この記事を評価して下さった方は、
