そこで、今回だが、良く知っているけれども、ちゃんと知らなかった語句を見ておきたいと思う。
一 追贈
法果年八十余にして卒す、帝、三び其の喪に臨み、老寿将軍、趙軍胡霊公を追贈す〈今、老寿将軍を贈るは、皆此の時の勅に出づ、知りぬ前の輔国は必ず是れ将軍にして胡霊の二字の諡なり〉。
『緇門正儀』7丁裏、訓読は原典を参照しつつ当方
上記一節は、『大宋僧史略』巻中「二十九僧統」を参照して書かれたものであるが、実際の原文と比べると、ちょっと不明の点も残る。まず、この沙門法果について、出家者ではあるはずだが、何故かその人に追贈された名前が「老寿将軍、趙軍胡霊公」となっている。これが、良く分からない。つまり、この将軍とか公とかは、あくまでも在家者向け、というか、一般的な世間における称号などであって、仏道に於けるそれでは無いはずである。
なお、もう少しこの問題について調べたところ、以下の一節に行き当たった。
・沙門封爵(『仏祖統紀』巻51)
この項目は、沙門を世俗的な爵位に封じた事例を挙げていることが分かる。例えば、以下の一節などを見出した。
・梁の武帝、勅して沙門恵超を寿光殿学士と為す。
・北魏の明元、沙門法果を封じて宜城子と為し、加えて安城公に封じ、霊公と諡す。
・唐の太宗、勅して沙門智威を四大師と為し、朝散大夫に封ず。
以上の箇所の通りだが、他の2人は或る種の官職に充てたことが分かるのだが、その点でも法果は特別であり、領土まで得ている。もちろん、それほどに明元帝(392~423、南北朝時代北魏の太祖の長子)から重用されたのであろう。ただ、後の文献まで含めると、まずは「諡名」の最初であるということと、もう一点「僧、俗官を受くるの始なり」(『仏法金湯編』巻5)ともあって、どちらにしろ沙門法果は中国仏教史上でも、俗の政調との関わりに於いて、特異な人物だったと見ることが出来よう。
まずはそこまで結論付けておきたい。
ところで、『緇門正儀』であるが、今回の「追贈」項の次に「秩俸(官位に基づいて受ける俸給、或いは官位・官職のこと)」項があって、僧侶が俸給や官位を受けたことを示すのだが、その項目の後に「以上、僧史略に見ゆ」(8丁表)とあって、同文書の事項を締め括っている。以下は日本の僧官の検討に入っていくようである。よって、またしばらく、この連載を続けていきたい。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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