つらつら日暮らし

禅林に於ける新人教育について

今日、11月1日は「教育の日」であるらしい。この日に何か、日本教育史上の出来事でもあったのか?と思いきや、11月3日の「文化の日」に関連して、教育文化週間となっているから、ということらしい。

それで、今日は「禅林に於ける新人教育」が見られる問答を採り上げ、検討することとしたい。

 七人の新到相見す。
 師問う、陣勢既に円かなり、作家戦将せん。何ぞ出来して、楊岐と相見せざらんや。
 僧、坐具を以て便ち打つ。
 師云わく、作家。
 僧、又た打つ。
 師云わく、一坐具・両坐具、作麼生。
 僧、擬議す。
 師、背面に立つ。
 僧、又た打つ。
 師云わく、你道え、楊岐の話頭、甚麼の処に落在するや。
 僧、面前を指して云わく、這裏に在り。
 師云わく、三十年後、明眼の人に遇わば、錯挙することを得ざれ。且く坐して喫茶せよ。
    『聯灯会要』巻13・楊岐法会禅師章


中国臨済宗・楊岐派の楊岐法会禅師に因む問答である。ここで「新到」とあるが、要するに楊岐禅師の会下に新たにやってきた者を指す。この時は7人もいたようだが、早速に楊岐禅師は「陣勢既に円かなり、作家戦将せん。何ぞ出来して、楊岐と相見せざらんや」と述べることで、問答に誘っている。この言葉は、いわゆる「釣語(索語)」であり、分かりやすく言えば「かかってこい」ということである。

その後、7人の中で、おそらくは一番気力があったのであろう1人が、いきなり「坐具」をもって問答を仕掛けたようであるが、結果は以上の通りで、体よくあしらわれた感じではある。とはいえ、これは挨拶程度ということなのだろう。

 新到に問う、甚れの処より来たる。
 僧云わく、南嶽より来たる。
 師云わく、観音、什麼と為てか洞庭湖裏に入り去るや。
 僧云わく、某甲初心、会せず。
 師云わく、参堂し去れ。
 代りて云わく、喏。
    『雲門広録』巻下「勘弁一百六十五則」


こちらは、中国雲門宗の雲門文偃禅師の問答である。雲門禅師が、新到を見て「どこから来た」と尋ねた。新到は、「南嶽から来ました」と答えた。そこで、雲門禅師は「観音菩薩がどうして、洞庭湖の中に入ったのか」と聞いた。新到は、ここが正直な回答ではあるが、「自分はまだ初心者なので、分かりません」と答えると、雲門禅師は「僧堂に入って坐禅せよ」と指示したのであった。

ところで、いわゆる「新到」への対応について、上記は既に叢林に入った後の問答となるが、実際にはこの前に、「掛搭」という儀礼がある。行脚していた僧侶が、自分が持っていた行脚道具などを置いて、特定の叢林に所属することをいうが、「新到」という言葉は、本来、特定の叢林に新入りとなった者を指す言葉であった。

仏教の初心者という意味は、「新到」ではなくて、「初心」「晩学」などである。もちろん、「初心」は、どこかの叢林に初めて入るとき、必ず「新到」となるので、混同されやすいし、上記の雲門禅師の問答の通り、「新到」が「初心」の場合もある。

初心の入道は、法律未だ諳んぜず、師匠言わざれば、人を此に陥さん。今茲に苦口す、敢えて望むらくは、心に銘ずべし。
    『禅苑清規』巻1「受戒」項


あと、初心者への指導という点が明記されているのは、上記一節であろう。初心者は、まだ法律(戒律や仏教の教え)を覚えていないので、師となる者はしっかりと指導すべきだというのである。『禅苑清規』自体、宋代の文献ではあるので、僧侶教育も沙弥や童行から行う必要があったと思われ、「沙弥受戒文」や、「訓童行」の項目が見える。

今思えば、「訓童行」をもって、僧侶教育の事例を考えれば良かった・・・来年かな?

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