大方の叢林、三月一日、草単を出して、挂搭を止む。堂司、戒に依りて排し僧数を写す。堂司行者、先ず首座に呈し、次いで方丈・両班に呈す。卓子に筆硯を備え、僧堂前、或いは衆寮前に陳列す。凡そ三日、或いは差誤有れば、望みて自ら改正すべし。或いは関係に渉りて詳稟せよ。維那、方便して検察し、私讐を許さざれ。大衆を悩乱し、叢林の法を毀壊するなり。
『禅林備用清規』巻3
「草単」というのは、叢林に集まってきた修行者が自らの僧諱や戒臘などを書くための用紙を指している。「草」とある通り、まだこの段階では下書きである。しかし、これが始まると、その夏安居に随喜する僧衆の数が定まるので、それ以降の掛搭(寺院に留まること)を許さないという。
そして、堂司は戒臘の順番に従って、僧の数を写し、堂司行者はその名簿を首座や方丈・両班などに呈するという。また、それを僧堂の前や衆寮の前などに出しておき、三日間ほどはその修正を許すという。
面白いのは、維那は良くその内容を点検し、「私讐を許さざれ」とあるが、これは当時、名簿の中で、先輩・後輩などを書き換える場合があったと推定される。しかし、そのようなことをすると、大衆を混乱させ、叢林の法を壊す悪質な行為だと批判しているのである。
さて、上記の一節は、後代の文献にも引用されている。
古規、三月一日に掛搭を止め〈四月一日に旦過を鎖ず〉、草単を出す。而今の諸方、寮の広狭、寺の羨乏に随って、而も衆を安じ、数を約すること有りて、数、既に満ちれば即ち掛搭を止めよ。数日の後、僧薄を定む。必ずしも月日に拘らず。故に且く係之に係りて掛搭請仮の次いで位籍の一条を定め、師家処分せよ。須らく詳らかに参到の浅深、人才の高下に鑑みて各おの其の処を得よ。已に位を定めて薄藉を書き了らば、衆寮に報じて云く、僧薄、已に定む。請うらくは衆、来りて観よ。雖有謙りを抱え卑を求めるもの有ると雖も、濫りに遷動して師家を煩わせることを得ざれ。
『小叢林清規』巻上「定僧簿」
こちらは、江戸時代の臨済宗妙心寺派の無著道忠禅師が記されたものだが、「古規」とある箇所が『禅林備用清規』を受けていることは明らかである。なお、時代や国の違いであるが、当時は衆寮の広さや寺の経済状態なども考慮して、受け入れる大衆の数を決めるように促している。
なお、状況が変化したのか、様子は知らないけれども、別の宗派の文献では、3月中に来れば安居に随喜出来ると書いてある場合もあるが、上記のように、3月初めに僧侶の数を定める場合もあったことになる。
それから、いわゆる新暦以降は安居は1ヶ月遅くなり、上記の数字も1ヶ月ずらして理解する必要がある(ただし、気候などで、前後に1ヶ月程度ずれることは、律以来の伝統である)。よって、今日という日は現代ではそれほど重い意味を持たないが、かつての状況を確認してみた次第である。
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