師、寛元二年甲辰七月十八日に於いて、当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶座下に雲集す。
『永平広録』巻2冒頭
「徙」だが、良く見ていただくと、「徒」ではないとご理解いただけると思う。意味は「移る」である。道元禅師は京都深草の興聖寺から越前に移転してきて、吉峰寺や禅師峰などで他の大衆とともに過ごされていたが、上記の通り大仏寺に入られた。そして、翌年4月の夏安居から、四方の修行僧の受け入れを開始されたのである。
なお、伝記の記載になると、この辺の様子がもう少し詳しく伝えられるようになる。
同年七月十八日、開堂の説法に云云、師、今日より此山を吉祥山と名づけ、寺を大仏寺と号す。
乃ち頌有りて曰く、
諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、
諸仏倶に来たりて此の処に入る、是の故に此の地最吉祥なり。
この日、諷経の間、龍神の起雲降雨、草木樹林みな吉祥の瑞気をあらわすと見えへたり。
古写本系統『建撕記』
以上の記録から、道元禅師が大仏寺に入られた時、開堂の説法をされたというのである。通常は、この段階で法堂が既に建てられていたことを意味するかと思いきや、まだ出来ていない(同年9月1日に落慶)。よって、ここの開堂とは、あくまでも山内に入ることを示すためのセレモニー的だった可能性がある。
そして、道元禅師は新たな寺院について、山号を「吉祥山(これを「傘松峰」とするのは、江戸時代の面山瑞方禅師の説だが、他に見られない独自の主張であるため、ここでは採らない)」とし、寺号を「大仏寺」とされた。そして、その山号を讃える偈頌も詠まれた。「諸仏如来の大功徳は、もろもろの吉祥の中でも最無上である。諸仏はともに来てこの山に入る、だからこそこの地は最も吉祥なのである」という意味である。なお、この偈頌は、現代でも晋山式の際に四旒の旗に各句が記され、新命住職の行列に彩りを加えるのである。
その「吉祥山」の意義について、更に『建撕記』では次のようにも伝える。
是を吉祥山と名けらるることは、吉祥の帝釈宮の名、又仏の成道の時、吉祥草をしき玉ふ、今地を平げ伽藍を建立する処、吉祥なり。
まず、帝釈天の宮殿の名称については、『大方広仏華厳経』巻7「仏昇須弥頂品第九」の記載を元にしている。同品中の偈頌に、以下の一節が見られる。
迦葉如来具大慈、諸吉祥中最無上、
彼仏曽来入此処、是故此地最吉祥。
この偈頌の文言が、先ほど詠まれた大仏寺へ入寺した時の開堂の偈頌の典拠であると理解出来よう。『華厳経』では、上記の迦葉如来以下十仏の名前と功徳を挙げられたのだが、それを「諸仏如来大功徳」と読み替え、更に、「彼仏曽来入此処」を「諸仏」ともに来たると表現したのである。そして、これらの結果、吉祥山大仏寺という寺域全体を優れた場所として讃歎されたのである。このことは、以前も【道元禅師が語った永平寺の環境論】という記事を書いているので、よろしければお読みいただきたい。
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