しかあればすなはち、いま道著する画餅といふは、一切の糊餅・菜餅・乳餅・焼餅・糍餅等、みなこれ画図より現成するなり。しるべし、画等、餅等、法等なり。
『正法眼蔵』「画餅」巻
或いは以下の御垂示もある。
般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意識等なり。また四枚の般若あり、苦・集・滅・道なり。また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・末来なり。また般若六枚あり、地・水・火・風・空・識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。
『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻
この「餅」「枚」について、おそらく同じ根を持つ言葉なのだろう、ということは思っていたのだが、確信というか、それを自分自身に裏付ける根拠を見出すことが出来なかった。すると、ようやくながら、この「餅」や「枚」とは一体何であるのか?それを具体的に示す一節を見い出した。というか、今頃気付いた?と自らの勉強不足を恥じるばかりだ。とりあえずこれである。
拝問す。日本国、并びに本朝の疑う者云く、今の禅院の禅師の弘通する所の坐禅、頗る小乗・声聞の法なり。此の難、云何が遮せんや。
堂頭和尚慈誨して云く、大宋・日本の疑う者の所難は、実に未だ仏法を暁了せざるなり。元子、須らく知るべし、如来の正法、大小両乗の表に出過す。然りと雖も、古仏、慈悲落草して、遂に大乗・小乗の授手方便を施すなり。元子、須らく知るべし、大乗とは七枚の菜餅なり、小乗とは三枚の糊餅なり。況んや復た仏祖本より空拳の小児を誑かすもの無きをや。黄葉・黄金も宜しきに随って随授し、授記・弄筯、空しく光陰を度ること無ければなり。
『宝慶記』第36問答
なお、ここで註釈を見てみると、以下のようにある。
七枚菜餅、三枚の胡餅から云ふ、平生の家常で、家のつねじや、なにじやと云ふても、利益にならぬと云ふことはない、しかあれば、大乗小乗ともに、七枚の餅をくひ、三枚の餅をくふと同じことゆへ、なにをしたと云ても空く光陰を度ることはない、すつきり、衆生利益の為になる、
面山瑞方禅師『宝慶記聞解』巻下
ここから、面山禅師は「七枚・三枚」を総じて仏教全体として捉えている印象がある。ただし、その把握は正しいのだろうか?
十月旦の上堂。開寒氷地獄開く、口は是れ禍の門なり。發猛火を発するの鉄床、身は苦具と為る。
浄慈、此を以て、応に箇の時節に、冷灰有りて豆爆ぜること莫るべし。煖気相い接する底や。其れ或いは未だ然らず。斎時、三枚の乳餅・七枚の菜餅なり。
『如浄和尚語録』
以上の通り、如浄禅師は自らの上堂でも「三枚の乳餅・七枚の菜餅」を用いられている。そう考えると、天台宗で用いる「十界」との関わりを考えてみたいが、どうなのだろうか?そう思う時、如浄禅師が『宝慶記』で「大乗は七枚」「小乗は三枚」と仰っていることに注目すると、小乗とは(実際には菩薩乗も含むけど)三乗を意味し、大乗については六道を超え出た「仏乗」としての「七」を意味しているのかもしれない(仏教で「七」の数字が多いのは、衆生の輪廻する「六道」を超出するの意味)。
その意味で、「枚」とは事象を数える際の単位として組み込まれているのだろう。その上で、「餅」とは、米の集まり(蘊)であることから、この諸行無常なる世界そのものを表現しているのかな?とか考えた。
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