つらつら日暮らし

「神無月」雑考(1)

拙ブログでは、これまで「神無月」という名称について何度か考察している。理由は、「神無月」という名前自体が、神道というか、日本の文化に関わりがあると思われ、その様子を考えざるを得ないと思ったからである。

そこで、これまでの記事は【「神無月」の検索結果】で見ていただきたい。

さて、今日はとりあえず、以下の一節を見ておきたい。

神無月とは、神嘗月の意なり。陰暦十月をいふ。九月に、稲を刈め収め、十月に至りて、神嘗祭をなし、其の初穂を、まづ、神前に供ふる式をなす月なればなり。神々が出雲へ集会して、諸国に神の無き月なればいふなどいへる古説は、信ずるに足らず、さては出雲は、神無月あるべくもなし、
    伊藤平章『徒然草講義』48頁


「神無月」を調べていくと、一定量、必ず『徒然草』がヒットする。何故ならば、本文中に見えるからである。

神無月の比、栗栖野といふ所を過ぎてある山里にたづね入ること侍りしに、はるかなるこけのほそ道をふみわけて心ほそくすみなしたる庵あり、
    『徒然草』第11段


以上の通りだが、この一節があるために、『徒然草』がヒットするのである(なお、第202段は「神無月」の名称を論じた一節として著名で、【「神無月」について】の記事を参照されたい)。先に挙げた『徒然草講義』も、上記一句への註釈なのだが、ここで「神無月」のことを「神嘗月」だと解釈している。それで、拙僧自身はこの言葉の元になった「神嘗祭(かんなめさい、と読むとのこと)」について、それほど知るところが無いので、取り急ぎ伊勢神宮のサイトを確認した。

恒例祭典10月・神嘗祭(神宮)

伊勢神宮の恒例の祭りの中でも、神嘗祭が最も大事であって、内容は「その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にささげて、御恵みに感謝する」とのことである。ところで、この祭を現在は10月に行っているのだろうが、旧暦でも同様だったのだろうか?それから、最初「神嘗祭」の読み方も確認出来ていなかったが、「かんなめさい」だとすると、「神嘗月(かんなめづき)」を経て「神無月」というのも、ちょっと分かる気がする。

ただし、実際のところはどうなのだろうか?拙僧も色々と調べてみたものの、調査能力が拙いので、まだまだこの辺の事実関係が分かっていない。また、実は以前【「水無月」一考(令和5年度版)】の記事で見た屋代弘賢『古今要覧稿』では、この辺を批判している。

又神嘗月といふ説もあれど、いづれも信じがたし、
    『古今要覧稿』「時令部 巻2」20丁裏


そこで、何故このような説になっているかというと、著者の屋代は明快な論拠を示している。

令義解延喜式等神嘗祭の事みえたれども、共に皆九月なれば十月をもて神嘗月といひがたし、
    同上・27丁裏


やっぱりか。これは予想通りだった。つまり、新暦の10月に伊勢神宮で「神嘗祭」を行っているが、収穫などに係っているとなると、旧暦と合わない可能性が高かったのである。しかし、上記の一節も、実際には論拠を確認しなければならないし、十月で良いという見解もある。よって、今回はそこまでの時間が無いので、ここまでとしておきたい。

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