釈迦牟尼仏道、如是相、如是性。
しかあれば、開華葉落、これ如是性なり。しかあるに、愚人おもはくは、法性界には開華葉落あるべからず。しばらく他人に擬問すべからず、なんぢが疑著を道著に依模すべし。他人の説著のごとく挙して、三復参究すべし、さきより脱出あらん向来の思量、それ邪思量なるにあらず、ただあきらめざるときの思量なり。あきらめんとき、この思量をして失せしむるにあらず。開華葉落、おのれづから開華葉落なり。法性に開華葉落あるべからずと思量せらるる思量、これ法性なり、依模脱落しきたれる思量なり、このゆえに如法性の思量なり。思量法性の渾思量、かくのごとくの面目なり。
『正法眼蔵』「法性」巻
ここで問いたいのは、「三復参究」ということである。この言葉、おそらく道元禅師の造語である。意味はそれほど難しくない。「再三にわたって参究せよ」ということであり、それは道元禅師の直弟子達も、以下のように註釈していることから分かる。
他人の説著の如く挙して、再三参究すへしと云也、
『正法眼蔵抄』「法性」篇
この通りである。ところで、先の一節は何を仰ってるかというと、『妙法蓮華経』「方便品」の「十如是」の内、相・性について、示されたことなのだが、道元禅師は「開華葉落」という自然戒の現象こそが、「如是性」であるという。本巻は、「法性」を論じているから、そこが問われるのだが、道元禅師は、愚人は、法性界に「開華葉落」は無いと独断しているという。しかし、それを受け容れずに、他人にも疑問を寄せること無く、自分の疑問を道理を述べるものとして、「依模」すべきだという。「依模」とは、「模に依ること、型通りであること」という意味だから、結局、自分が持っている疑問を、他人(仏陀)が説いたものとして、「三復参究」すべきだというのである。
では、何を参究すべきなのか?
それこそ、自分がまだ極めていないという状態での思量(考え)は、「邪思量」なのでは無くて、「あきらめざるときの思量」だとされる。一方で、明らかにした時は、この「あきらめざるときの思量」を無くしたのではないという。それも含めて、法性思量になるのである。
その法性思量こそが、「開華葉落、おのれづから開華葉落なり」という現象肯定になる。しかも、「法性に開華葉落あるべからずと思量せらるる思量、これ法性なり」なのである。問題は、「開華葉落」では無くて、「法性」なのである。そして、その「法性」に於いてある思量だから、「依模脱落しきたれる思量なり」ともされる。「依模」した上での「思量」なのだが、「法性」になるということは、「依模」全体が「法性」となるので、「依模脱落」となる。「依模脱落」としての思量だから、「このゆえに如法性の思量なり」ともされ、また、「思量法性の渾思量、かくのごとくの面目なり」ともいう。
読んでいくと、この辺は一方通じる道理として把握されていることが分かる。そのように、「三復参究」するべきなのである。
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