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吉原集落から南へ2キロメートル程行き、旧北陸下街道と交わるところに上原公園があり、ここが旧上原小学校(当時は上原国民学校)である。この間の道が小説の題名になった「長い道」なのだ。潔少年が色々な意味で鍛えられ、成長した場所だ。当時は未舗装で、幅が今の半分程で、大八車(昔のリヤカー)が2台すれ違える程だった。正面には北アルプスの美しい山々が見渡せる。
上原公園に「長い道」の文学碑があり、「その日に限って日本アルプスの山々は僕の心に深い印象を与えた。毎日こんなにすばらしい山々の姿を望み見ながら、学校までの長い道を歩いていたとは、到底信じられないような気がした。それらの山々の美しい壮麗さにまるでその日初めて目覚めたかのようだった。僕の心はきっと毎日のみじめな自分に関わり合い過ぎ、それらの山々の存在を受けとめるだけの余裕を持たなかったのだ」と刻まれている。
この横には東大時代兵三先生と同期だった大江健三郎先生の「柏原兵三さんは、ドイツ文学の専門家で、ドイツ留学に根ざした作品もあります。そこでも独特の土地についての感覚がみられますが、とりわけ柏原さんの文学が生彩を発揮したのは、彼の父祖の土地、また疎開して少年期を過ごしました富山県入善町での生活を、実に細かな事実と観察と情感を込めて描くときでした。過去の細部をこのように生きいきと描くことは、文学の一つの形ではありますけれど、日本の現代文学において下火にあったその傾向を、柏原さんは復興したのです。そしてその仕方を促したものに、ドイツ文学の教養と、そして子供の魂を育んだ土地をいつまでも自己の核心におく、柏原さんらしい生き方があったと思います。そのような柏原さんの文学碑が、ほかならぬ父祖の地の、学校跡に建つことを。柏原さんの文学と人となりを懐かしむわれわれ心から喜びます」と心のこもった言葉が刻まれている。私は兵三先生への餞だと感じた。
上原公園の南側に旧北陸下街道が通り、公園南側の道沿いに「上原の丁松」と呼ばれる樹齢400年程の松の大木(約250メートル)がある。これは兵三先生が通っていたときからある松の木だ。この近くに実家のある当時のことを知る方の話では、「私が子供の頃は、街道沿いの黒部川あたりまでたくさん松の大木があったけど、道の拡張で殆ど伐採されてしまった。それと「長い道」の中に松根油の話が出てくるけど、その時に伐採された松もあったかも知れない。あとこのあたりの何代も続く旧家の立派な松の大木が伐採されたのを覚えている。戦争のために馬鹿げたことをしたのですよ」とおっしゃった。
画像:左から上原公園・「長い道」文学碑1と2・上原の丁松・1945年頃の上原国民学校・1927年(昭和2年)頃の上原小学校講堂と奉安殿・1983年(昭和58年)閉校前の上原小学校
当時は吉原集落を南へ行き、線路を渡ったあたりまでは田圃だけだった。今は少し建物があるものの、前方に北アルプスが見える風景は変わらない。ここも吉原海岸のことを話してもらえた方からの話と、今の長い道の写真を元に、当時の長い道を絵で再現してみることにした。実際「その日に限って・・・」の風景は吉原から駅までの道なのだが、こちらは当時杉林等があり、当時と同じように再現が難しいと感じた。一方吉原集落から小学校までの長い道は、建物をなしにすることでほぼ当時と同じように再現出来ると感じたのと、兵三先生が作家になる原点となった場所でもあるからだ。服装は松根油のことを話してもらえた方の話から再現してみた。その話を元に「その日に限って・・・」の場面を再現してみた。吉原海岸と同じように当時潔少年が見たのはこんな風景だったのだと感じ取ることが出来た。
画像:左から今の吉原から小学校(今の上原公園)までの長い道・1945年の吉原から小学校(当時は国民学校)までの長い道
松根油のことを話してもらえた方の話では、「自分達のような泥臭さはなく、異星人に見えた。地元の子は藁草履に肌着一枚と古いズボン姿で、荷物も肩掛けの布かばんか風呂敷包みだったが、兵三君を初めて見たとき、彼は靴と靴下を履き、カッターシャツにきれいな半ズボン姿で、帽子を被り、ランドセルで学校に来た」とのこと。地元でこのような服を持っている子は誰もいなかったそうだ。なのでうらやましいと思った子がいても不思議ではないと感じた。潔少年は勉強もよく出来、すごく物知りだった。このことが嫉妬や劣等感を生み出し、進少年が自分の立場が危うくなると感じて嫌がらせに繋がったのだろう。とはいえ二人のときは将来を話し合ったり、お互いの家を行き来し、一緒に写真館に行ったりと心の底から憎かったわけではないのだ。潔少年も疎開を決めたきっかけである進少年が、自分の理想と違っていたことに気付いて心の葛藤があった。とはいえ同じく心の底から嫌いにもなれなかったのだ。これは人間である以上誰もがあり得る感情のもつれである。私もこの年になったせいか潔少年と進少年、どちらの気持ちも理解出来るのだ。
「柏原兵三の人と文学」の中に、大江健三郎先生は学生時代、兵三先生が色々な意味で整っていることに対して嫉妬したことがあると書いている。文学碑に心のこもった言葉を贈った健三郎先生が嫉妬したことがあるので、人間である以上、心の闇があるのだと感じた。
この体験が兵三先生の作家としての原点となり、「長い道」を書き上げたのだ。地元の方は「作家としてやっていきたいという気持ちが芽生え、その原動力となったのがこの「長い道」での体験だったのですよ。だから何としても書きたかったのでしょう」とおっしゃった。これは当たっていると感じた。実際兵三先生は途中何度か挫折はあったものの、20年近くかかって「長い道」を完成させた。言い換えれば、ここまで書き上げるのに長い道だったとも解釈出来るのだ。
他に当時のことを知る人からの話では、「勉強ばかりしていた」、「「長い道」を書く前に入善に取材に来ていた」、「嫌味な感じがなく優しい人だった」、「本を読むのが上手で、大変な努力家だった」等色々聞くことが出来た。ある方は「東京に戻る頃には地元の子供と変わらないくらい逞しくなっていた」とのこと。兵三先生の吉原での疎開生活は1年程で、この間辛いこともあったが、農作業も一生懸命手伝い、東京に戻る頃には地元の子供と変わらないくらい逞しくなっていたのだ。
その会話の中で共通して話題になったのが、あの頃は子供同士の喧嘩なんてしょっちゅうだった。それによって味方に引き入れたりすることは、ある意味当時の楽しみだったのだとのこと。また隣村の子供から「汝(わ)はどこの奴じゃ!」と絡まれたり、川を挟んで石の投げ合い等しょっちゅうだったとのこと。そうゆう時代だったのだ。当時は戦争の真っ只中であり、話をして頂いた方の中には徴兵で身内を亡くされた方や、爆撃で身内や親戚を亡くした方もいらっしゃった。やはり戦争は酷なものだと改めて感じた。
=文学館の章=へ続く
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