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まず入善町を知らない人がいるかも知れないので、場所と特徴を地理的に解説します。これは兵三先生の作品中に、富山の米や味噌が美味いということ、日本海(地理学的には黒部市の生地鼻から東側が日本海で、西側が富山湾になる)や北アルプスのことについても出てくるので、押さえておきたいポイントを画像を交えながら解説します。
富山県下新川郡入善町は富山県東部にあり、2022年(令和4年)10月現在、人口約2万3千人の町で、黒部川が形成した広大な扇状地にある。黒部川扇状地の面積は約96平方キロメートル(伊豆大島=約91.1平方キロメートルより少し広い)、入善町の面積は約71.3平方キロメートル(北海道の洞爺湖=約70.7平方キロメートルとほぼ同じ)である。
画像:海側から見た黒部川扇状地
歴史上入善の地名が初めて出てくるのは、古文書によると1130年(大治5年 平安時代後期)頃のことである。
黒部川扇状地は文字通り、北アルプスの山々からの土砂が黒部川に流出し、堆積して形成された扇状地である。今の黒部川の流れは一筋だけだが、昔は幾筋にも別れて日本海に注いでいた。今の入善町付近は江戸時代まで「黒部四十八瀬」と呼ばれ、架橋されておらず、北陸街道では親不知と共に難所だった。入善町に古黒部という地名があるが、これは旧黒部川の川筋だったことから来ている。1885年(明治18年)に現在の川筋になった。
画像:旧黒部川流域図
江戸時代前半まで、北陸街道は三日市(現在の黒部市三日市)から四十八瀬を通り、入膳(今の入善町の中心部で昔はこう書いた。古文書でも入善と書いてあるものもあり両方用いられたようである)を経由し、泊(現在の朝日町泊)までの下街道しかなかった。参勤交代のときもここを通るのは大変だった。なので当時この地を治めていた加賀藩は、1662年(寛文2年 四代将軍家綱の時代)に扇状地の扇頂付近に愛本橋を架け、山沿いの舟見(現在の入善町舟見)を経由し、泊までの上街道が開かれた。上街道経由のほうが遠回りだが四十八瀬を避けられるので、気象による制約の少ない上街道がよく利用された。それでも冬場等川の水量が少ない時期は近道である下街道も利用されたとのこと。ちなみに三日市−泊間は下街道経由で約17キロメートル、上街道経由で約21キロメートルだった。
黒部川扇状地の特徴として、きれいな扇形をしており、扇頂の愛本橋付近を中心に等高線(傾斜)も緩やかに一定間隔でほぼ円形になっており、世界的にも珍しい。これは扇頂から扇端まで黒部川が四十八瀬だった頃に流れを左右に変えながら、ほぼ均等に土砂を堆積していったからである。
画像:黒部川扇状地等高線
黒部川扇状地は水資源に恵まれ、農業が盛んな土地柄である。扇端は湧水が豊かで、昔から主に水田に利用されてきた。扇端は清水が湧き出ている所が多く、名水百選に選ばれている。一般的に扇央は果樹園や茶畑や桑畑(養蚕が盛んだった頃)等に利用されることが多いが、黒部川扇状地は扇頂から扇端間の一番距離があるところで約13キロメートルと短く、傾斜が緩やかで用水が引きやすいことや、湧水が豊かなこと等水資源に恵まれていることから、扇央でも水田が多いことが大きな特徴である。
画像:入善町高瀬湧水
このように黒部川扇状地は豊かな水資源に恵まれた場所であるが、人々は水の恵みを受けつつも、時には水との戦いでもあった。今の黒部川は川筋が1つだけだが、四十八瀬だった頃は流域が広かったことと、当時は治水対策や土木技術が未発達だったので、大雨で洪水になると大災害となり、暴れ黒部として人々に恐れられてきた。
このようにしてこの土地の人々は豊かな水の恵みを受けながら、時には水と戦い、大変な努力を積み重ね、農地を開拓してきた。そして入善町付近は富山県でも有数の米どころとなったのだ。
入善町で農業を営んでいる方に、入善産の米が美味いと言われる理由は?と聞くと、「この黒部川扇状地の豊かな水です」とおっしゃった。北アルプスの雪解け水は約100年の歳月をかけ、黒部川扇状地にミネラルの多い安定した温度の伏流水となって湧き出てくる。この水は天然のクーラの役割を果たし、日中温度の上がる水田も低温の豊かな水のおかげで涼しくなり、これが昼夜の気温差を生むので理想的な米の旨味になるそうだ。
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