私は淡路島で育ち毎日山へ行って親の農作業を手伝い、野球や相撲クラブで暗くなるまで泥んこになって遊んでいた、成績は体育以外は3で普通の悪餓鬼だった、4年になって学校の先生がやっていた塾に行くようになる、毎日二三時間、漢字と算数の計算「多数桁の足し算、引き算、そして自由自在という問題集の文章題を解く、解答が出るまでやる、それで一か月200円の月謝、先生の私塾の様なものだった。嫌だと思った事はなく、遊びに行くような感じだった。小学校を卒業するまで通った、これが私の原点、それまでは勉強もそれ程出来ないから、商人になる為、丁稚奉公に行こうか、大工になろうかと思っていた、この同じ事を繰り返す勉強、今の公文の様なものか、欲もなく家で勉強することなく習慣して行く。まだやる気はない、六年になって進学が話題になる、地元の中学に行くか、明石の大蔵中学に行くか、前年兄が大蔵中学に越境入学していたので、当然行くことになる。当時大蔵中学は明石高校の付属か予備校の様なもので、明石の他の中学から越境して来ていた、一学年150人以上が明石高校に入った
8月31日 予備校化した大蔵中学の越境問題は教育委員会でも問題になり。厳しくなり現実に出来なくなった。勉強の習慣化、唯先生の塾に通っていただけが、6年生になり、担任の成績順に並ばせたり、いろんな行事に積極的に参加させる方針が、自分の意欲を少しづつ刺激し、初めて家で予習復習をするようになった、そして大蔵中学に入り、周りの優秀な生徒に馴染み、1日中勉強する事が習慣になった、今の子供が進学塾に入り、勉強漬けの日々を送るようなものか。唯私の場合は子供の時から良く出来た訳でなく、先生の塾での熟成期間が良かったと今も思っている。
大蔵中学から明石高校の6年間は勉強はよくした。中学三年になって新任の先生が相撲部を作り。強い者が選ばれ、子供の時から相撲部にいた自分も選ばれ、他は学年で飛び抜けた体力の生徒。強いチームが出来、市内で優勝し、東播でも強豪の松陽中学を破り優勝、県大会は篠山であり旅館に泊まって参加した、一回戦で負けたが、その時のメンバーに重量挙げでオリンピックのコーチをした者もいた。勉強ばかりの二年間と違い、先生を兄貴の様に慕い、早朝に学校に行って、職員室で勉強したり、宿直室で一緒に泊まったり、毎日が楽しいから、成績は伸びた、元来秀才ではないから大した事はなかったが、学年で50番以内にいて、高校受験には不安を感じなかった、その前に兄が明石高専に行っていたから、自分も試しに受験したが不合格だったのは、少しショックだった。
明石高校では相撲部がないから柔道部に入る。入って五月の初段の昇段試験で一本背負いに行った所を後ろから絞められ落ちて気を失った、忘れられない経験だ、花畑の夢の中にいた。柔道と勉強に明け暮れ、楽しいだけの日々、何も不安を感じない、成績も順調、柔道もずっと負けていた明商に勝って市内で優勝、キャプテンとしてそれ成りの結果を残し、八月にインターハイの県予選は終わり、これからは受験一本で頑張らなければと思い、机に向かうが集中力が出ない、柔道をやり終えた後の心の空白、今だ経験した事のないスランプを陥った。学年で70番位にいたのが300番位までアッというも間に後退、その時は先輩の誘いで国立大の教育学部を受験し柔道部に入るつもりだったが目標を下げるべきか迷った。このスランプを乗り切らなければ俺は落伍者になる、苦手な英語の勉強に教科書をノートに書き写して地道な時間の掛かる勉強を続け、どうにかスランプを乗り切った。子供の時の地道な勉強の日々、それは自分一生貫いている気がする
9月11日子供に勉強を教え始めたのは大学四年生の時、高校の同級生の中学二年の弟の勉強を見て欲しいと頼まれ、それが初めてだった。彼とは相性が合ったのか、兄の様に慕われ、彼もやる気になって、成績は300番から30番位まで一年で上がった、私は唯、傍に居て、教科書を徹底的に読みこなさせるだけ。教科書には全てが書いてある。自分自身がやってきた方法でしか教えられない。地道な勉強が大事でそれを習慣にする。彼は今、医者をしていて。私がラーメン店を出す時も彼の両親に大変お世話になり。その後50年近くの付き合いで毎月地代を持って会いに行くのですが、去年の年末、彼のお父さんが90歳で亡くなられ、私自身の父親を失くした様な気持ちです。大学時代の家庭教師から人と巡り合い、人生が開け、今も続いている。私の人生はあの時から始まったと思っている。