石巻退教パソコンクラブ

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校歌 大川小

2013-09-14 19:34:20 | 日記

  
  
   



    亡くなった子供達が可哀想だけれど殉職した教員達のことも思うと・・・
    昔の小野訓導の様な犠牲が数多くあっただろう。
  
    現在の教育長たちが責任を追及されて苦しんでいるが、
   あんなフライパンの底の様な低地に二階建てで屋根付きの
   校舎を建てたことが間違いだった。脇の山を崩して土盛りをし、   
   3階屋上に避難できた対岸の吉浜小と同じ作りにしていであったら・・・。

    避難訓練せず、敏速な判断もできず、誘導も間違ったなどと
   殉職者を咎めるが、あの場に自分がいたらパニクらずに
   みんなを助けられたか。
    もうだめだと悟り生徒を両脇に抱えて津波に流され呑まれて行く
   しか無いときの気持ちを想像できるか。
  
    釜石の奇跡のような例もあるが、津波を予測できなかったのは
   大川小教員だけではない。

    原発、病院、学校、役所、文化センターなど今度の津波で
   壊滅したのは誰の責任?
    建設を要望され、審議し、認可し、計画し、予算を組み設計施工した。
   その間に津波を心配して設置場所の変更など議論はあったか。
   その当時の議員、有識者、首長、は先見の明が無かったか。
   温故知新ということを知らなかったか


     昭和8年三陸大津波から80年。その後に建てる時は当然
    津波を想定するべきであった。
    
     石巻文化センター、市民会館、市立病院、ハリストス協会
    雄勝小、雄勝硯館、雄勝公民館、
    渡波中、石巻女子商、湊中、湊二小、
    松島かんぽの宿、野蒜中
    
     これら海辺に建てたものは80年前にも
    津波をかぶった所だろう。経験者はどうした?
    自分が生きている内は2度と来ないだろうと?
    
    かく言う私も渡波にチリ津波の後も暮らしていた(海水浴場から30m)
   高2の時赤井から転居してきた頃は地震の度に海岸に出て水平線を見ていた。
   冬の夜でも30分以上見張っていた。
   大学は仙台で4年、初任地は岩出山に5年。計9年渡波を離れた。
   チリ地震津波の時はバイクで60km走って実家に駆けつけたが、
    我が家は無事だった>


     宮城県沖地震の時は湊中にいたが、津波の心配はしなかった。
    私の周りの誰もこんな津波があろうとは想像したことが無かったろう。
   
   40年程前に渡波の家を妹夫婦に譲って蛇田ニュータウン(向陽町)
   に新築転居したが津波を心配したわけではなかった。

  石巻赤十字病院も湊では狭いし老朽化したから蛇田の水田をつぶして
    高速道路の脇に建てたが、移転新築が間に合ってって良かった。
    これも津波を予測したわけではなかろう。
    市庁舎もさくら野が撤退したお陰で駅前に移転できたし、津波被害も
    軽く済んだ。全国の自治体から派遣された支援職員、相談被災者
    などでごった返し、内外の駐車場もパンクの状態になったとき、
    移転していて良かったと誰もが感じただろう。市の幹部に先見の明が
    あったわけでは無い。蛇田地区が大型店舗で賑わい、駅前が弱った
    という経済の動きがあったからで、市役所は運が良かったのだ。
     少し残念なのは6階ホールで文化協会の展覧会が開催できたのに
    翌年地震で壊れ1回だけで終わったこと。

                
  






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