石巻退教パソコンクラブ

パソコンクラブの活動、情報を公開します。リンクも歓迎します。

校歌 大須中

2013-09-15 19:57:29 | 日記

         
    昭和32年頃中高で同期の親友が英語とバスケを指導していた
    体育館が無いので校庭で練習。
   その頃からバレ-ボールの強豪として有名だった。
   男子が全国大会に2度出場している。
     
    30年くらい前、大須に写生に行ったとき朝早く見に行った。
   高台の上で狭い校庭。バレーとバスケしかできない。
   あとは陸上部が片隅で砲丸投げの練習をするくらい。
   砲丸投げではジュニァオリンピックに出場したことがある。
   今でも県大会で入賞してる

   港の船を描いたり、灯台のある高台に上がったり。
   南隣の浜から岬と灯台を描いたり。
   まんぼう画会で2回。宮城示現会で1回写生会に行った。
  

校歌 飯野川中

2013-09-14 20:15:13 | 日記
  
  飯野川中のホームページ
  向陽町に転居して来てから、新しく出来た国道45号線(旧道は北上川の土手の上)
  を鹿又天王橋まで5km、飯野川橋まで8.5km、可動ダム橋まで10kmと
  よくジョギングした。 国道には100m、500m、1km毎に標識がある。
   途中に河川敷運動公園があり、400mトラックでも走った。
  飯野川中の陸上部が練習していた。マラソン好きの元門中同僚が指導していた。
   
     最近は走らないがビッグバンにはパソコンの勉強、美術展の会合などで
   時々お邪魔する。文化センターが駄目になり市美術展ができなくなっていたが、
   ビッグバンでやることになった。今年は役員だけで(選抜展)来年から一般も。
    
    20年以上前十三浜校に非常勤で務め10年間週1回飯野川橋を渡った。
   北上町までの葭原の緑が美しかった。
  
  

校歌 大川小

2013-09-14 19:34:20 | 日記

  
  
   



    亡くなった子供達が可哀想だけれど殉職した教員達のことも思うと・・・
    昔の小野訓導の様な犠牲が数多くあっただろう。
  
    現在の教育長たちが責任を追及されて苦しんでいるが、
   あんなフライパンの底の様な低地に二階建てで屋根付きの
   校舎を建てたことが間違いだった。脇の山を崩して土盛りをし、   
   3階屋上に避難できた対岸の吉浜小と同じ作りにしていであったら・・・。

    避難訓練せず、敏速な判断もできず、誘導も間違ったなどと
   殉職者を咎めるが、あの場に自分がいたらパニクらずに
   みんなを助けられたか。
    もうだめだと悟り生徒を両脇に抱えて津波に流され呑まれて行く
   しか無いときの気持ちを想像できるか。
  
    釜石の奇跡のような例もあるが、津波を予測できなかったのは
   大川小教員だけではない。

    原発、病院、学校、役所、文化センターなど今度の津波で
   壊滅したのは誰の責任?
    建設を要望され、審議し、認可し、計画し、予算を組み設計施工した。
   その間に津波を心配して設置場所の変更など議論はあったか。
   その当時の議員、有識者、首長、は先見の明が無かったか。
   温故知新ということを知らなかったか


     昭和8年三陸大津波から80年。その後に建てる時は当然
    津波を想定するべきであった。
    
     石巻文化センター、市民会館、市立病院、ハリストス協会
    雄勝小、雄勝硯館、雄勝公民館、
    渡波中、石巻女子商、湊中、湊二小、
    松島かんぽの宿、野蒜中
    
     これら海辺に建てたものは80年前にも
    津波をかぶった所だろう。経験者はどうした?
    自分が生きている内は2度と来ないだろうと?
    
    かく言う私も渡波にチリ津波の後も暮らしていた(海水浴場から30m)
   高2の時赤井から転居してきた頃は地震の度に海岸に出て水平線を見ていた。
   冬の夜でも30分以上見張っていた。
   大学は仙台で4年、初任地は岩出山に5年。計9年渡波を離れた。
   チリ地震津波の時はバイクで60km走って実家に駆けつけたが、
    我が家は無事だった>


     宮城県沖地震の時は湊中にいたが、津波の心配はしなかった。
    私の周りの誰もこんな津波があろうとは想像したことが無かったろう。
   
   40年程前に渡波の家を妹夫婦に譲って蛇田ニュータウン(向陽町)
   に新築転居したが津波を心配したわけではなかった。

  石巻赤十字病院も湊では狭いし老朽化したから蛇田の水田をつぶして
    高速道路の脇に建てたが、移転新築が間に合ってって良かった。
    これも津波を予測したわけではなかろう。
    市庁舎もさくら野が撤退したお陰で駅前に移転できたし、津波被害も
    軽く済んだ。全国の自治体から派遣された支援職員、相談被災者
    などでごった返し、内外の駐車場もパンクの状態になったとき、
    移転していて良かったと誰もが感じただろう。市の幹部に先見の明が
    あったわけでは無い。蛇田地区が大型店舗で賑わい、駅前が弱った
    という経済の動きがあったからで、市役所は運が良かったのだ。
     少し残念なのは6階ホールで文化協会の展覧会が開催できたのに
    翌年地震で壊れ1回だけで終わったこと。

                
  





校歌 雄勝中

2013-09-06 20:11:12 | 日記
  > 
  津波の後、石巻北高飯野川校に移った。ホームページに校舎写真は無い。
  雄勝中のホームページ

  今まではワードの画面をPDF に変換、その画像をprtscで撮り、
   ペイントに貼り付けjpgにしていた。
    今回はワードを単1webページとして保存してprtscで撮り,
   ↑や傍線などをペイントで消した。

    雄勝は硯館の企画でで回顧展を2回、郵便局で個展を1回、
   公民館で一年間の絵画教室と、お世話になった。
   
    硯館は4階まで水没全壊、公民館も屋上に観光バスが上がっていたし郵便局も流失。
    3年前の4月、 喜寿記念に回顧展パート3をやろうかと思っていた。
   今年はもう傘寿。こうなったら雄勝硯伝統産業館の復興を待って米寿記念にやりましょう。
     
   

校歌 矢本二中

2013-09-02 17:43:40 | 日記

   
   矢本二中のホームページ   校舎の写真が使えない
私が旧制中三の頃、赤井小学校のとなりに木造平屋の赤井中学校があった。
   その近くに1年暮らし赤井駅から石巻に通学。駅の南は田んぼだった。
    今は埋め立てられ矢本二中などが建った。高1で川向かいに転居後も赤井駅から
   合計3年通学した。

    それから60年経った時、新任教員指導を頼まれて
   週1回通勤、2・3年の美術を見た。授業が終わった日、
   職員にだけ離任挨拶。卒業式、離任式は欠席することに。

    3月11日卒業式の日の午後津波が来た。 
  

校歌 青葉中

2013-09-02 10:24:30 | 日記
  
   青葉中ホームページ
    作詞の遠藤さん、作曲の太田さん、初代校長の千葉君(同級)と
  歌詞入力の中村さんと、みんな昭和40年代の石巻中同僚だった。
   
    ここに津波で死んだ画友の家族が避難していたとき見舞いに行った。
   校庭に自衛隊の車がいっぱい。大型テントの中にお風呂があった