パイプふかして、サックス吹いて

人生の大半を終え、思い返せばなんと種々雑多な生業で食べてきたのだろう、そんな半生を思い出すままに。

ショウボート

2010-02-05 10:00:47 | 日記

プロサックスプレイヤーとしての最初の現場、ショウボートは面白いシステムの店だ。

外観は名の通り船の丸窓が有り外輪船だ。

ドアーを開けると、いきなり銅鑼が鳴り響く、客の来店を店内に知らせる。

昔は船の出港の合図が銅鑼の音だった、マドロスドラ、古い流行歌の常套句だ。

客が三人だと三回叩く、来店人数だけ銅鑼を鳴らすのだ。

従業員の服装にも拘りがある。

まず客を迎えたり、従業員に指図をする、一般の店でチーフとかボーイ長に当たるのは、此処では
オフィサー.

白い海軍士官の服装に白いカバーのかかった制帽姿だ。

ウエイトレスはセ-
ラー服(女学生ではなくここでは水兵)でマリンガール

マリンちゃんと呼ばれ、背番号を付けていた。

ホステスの源氏名はサンフランシスコ、とか横須賀さんとか皆港の名ガついている。

が、なぜか鶯谷さんと山手線の駅名が源氏名の人もいた、港名が満杯だったのか?

さて、では経営者の社長はと言うと?

そうです厳めしい船長姿で、キャプテンと呼ばれる。

隣接する同系列の中華料理店の名は太鼓船

社長は船が好きなんですね。

戦後の銀座で一世を風靡した「ショーボート」は昭和45年に閉館。

1970年5月30日閉鎖中に火災で消失

今その場所には「リクルート」の立派なビルがその威容を誇っている。


バンドマン一年生

2010-01-30 16:09:55 | 日記

前述のジャズ学校は一年程で勝手に終了。

知人の紹介で電通通り、土橋脇の現在リクルートが在る場所にあったショーボートという名前のキャバレーの専属バンドに4thSAXとして入団。
 
二百曲以上あるパート譜を次々と初見で演奏するのは、ほやほやの一年生には半分もついていけない。 
 
前からいる三人のサックス先輩は気持ちよさそうに演奏を楽しんでいる、毎日楽譜を少しずつ持ち帰り練習した。
 
難しいところでも楽器を構えマウスピース(唄口)は口から離さない、客や店のオーナー等にはしっかり演奏している様に見せなくてはならない。
 
日が経つにつれ、慣れと教則本で勉強した効果が出てくるのだ。

この世界では店とバンドとはバンマスかマネージャーが何人編成かで店と契約するので、メンバーが休むときは自分と同じキーガ(バンド用語で楽器)で同程度の技量のラート(トラ=エキストラ)を自前で雇って補充しなければならない。
 
どうしてもラートが見つからない時は、窮余の一策でタチンボ(殆ど演奏出来ない者に楽器を持たせてステージ上でメンバーを装う)を雇う。

員数合わせだ。ちなみにプロ楽士一年生の初月給は九千円
 
当時の大卒の初任給とほぼ同じだった。

頑張って一人前に成ればこの程度のバンドでも年齢に関係なく3~4倍のネーカ(かね)は稼げた。 
                                  次回に続く。


1950年半ば頃の銀座のジャズ喫茶

2010-01-25 15:03:58 | 日記

奇術用品の実演販売のアルバイトの帰途、その頃数多くあったライブ喫茶に寄ることが多かった。

ジャズ系ではテネシー美松不二家ミュージックサロンアシベ、等、タンゴ系では白馬車新橋に夜来香があった。

前述のタンゴ系の店ではステージがエレベーター式にホールを上下して二階、三階の客も間近かにライブを堪能出来る様な工夫がしてありサービス満点、しかもコーヒー一杯で。

私が最も頻繁に通ったのはテネシーだった、どの席からも中二階に位置するステージがよく見え、生の楽器の鳴動、演奏にのめり込む事が出来た。

当時司会をつとめていたのは若き頃の大橋巨泉いそのてるお氏だった。
巨泉氏の奥さんだった女流ジャズヴォーカルのマーサ三宅さんも屡々出演していた。

石原裕次郎が映画の中で(おいらはドラマー)という歌をドラムを叩きながら歌っているジャズ喫茶のシーンはテネシーでロケしたか、モデルにしたセットだと思う。

そのテネシーで聞いたサックスの甘い音色と形の良さにあこがれて、当時新宿柏木にあった日本ジャズ学校に通いプロの世界に飛び込んだ。
                
             リンク    http://ameblo.jp/tokumaru221/


初めてのバイトは手品の実演販売

2010-01-20 07:40:43 | 日記
初めまして、パイプとジャズが大好きな私です。

数日前にブログを始めたのですが初めての事なので時間が掛かってしまい、タイトルと概要のみで開設してしまったのでいち早くアクセスしてくれた方には迷惑をかけました。

半世紀を超える私の半生記、思い出すまま順不同で書き綴っていきたいと思います。

まずは簡単な自己紹介、高校時代に奇術に興味を持ち、大学に進学後天洋奇術研究所に入り、デパートの手品用品売り場で実演販売のアルバイトをしていました。

三越、松屋他を担当したが銀座松屋が主だった.そのとき隣の銀座三越を担当していたのが初代引田天功でした、当時彼は日大工学部電気科の学生だった。

松屋で実演中、詰め襟の学生服の若者がシカゴの四つ玉を実演してくれと話掛けてきたが、彼が後に米国で大成功を納めた大マジッシャン嶋田晴夫です。

間もなくテンヨーに入った彼とは親しくなり銀座と浅草松屋を二人で担当した。

バイトの帰りに当時全盛だったダンスホール新橋のフロリダのホールとバンドのステージを見渡せる中二階の喫茶室で嶋田氏と二人で語った夢ー私はプロのバンドマンとして此のステージに立つ、彼はプロのマジッシャンとしてデビューすること、後に二人の夢は実現する事になる。

50年も前の話です。