パイプふかして、サックス吹いて

人生の大半を終え、思い返せばなんと種々雑多な生業で食べてきたのだろう、そんな半生を思い出すままに。

東京ドドンパ娘とアイ・ジョージ

2010-02-22 07:47:35 | 日記

今回はドドンパ娘、渡辺まり の登場です。

彼女は1961年に「東京ドドンパ娘」を吹き込み、レコードは100万枚にも及ぶ売り上げを記録、ドドンパ流行の先駆けと成った。

さて今日
のタイトルにある、アイ・ジョージとの関連は?

大阪のナイトクラブ「クラブアロー」のの専属歌手だった1959年に、来日した「トリオトリオ・ロス・パンチョス」の日本公演で前座歌手を務めた彼の名は日本中に広く知れ渡った。

その頃京都のフィリッピン人バンドの演奏する風変わりなビートのマンボにヒントを得た、クラブ専属北野タダシとアロージャズオーケストラのメンバーが計画、流行させたそうだ。

二拍目のアクセントを強く三拍目を三連音符に換えた此のスタイル。

ドドンパと命名したのはアイ・ジョージだそうだ。

彼はドドンパの生みの親の一人だ

私は当時人気絶頂だったフランク永井専属バンド浜田清と

Frank`s 9 に在籍していて、「フランク永井ショー」でクラブアローに出たことがある。

風格のあるさすがは大阪一のクラブだ。

渡辺マリさんとの写真は、フランク永井の地方巡業で、四国に一緒した時のものだ。

1960年代に大流行したドドンパブームはそう長くは続かず次第に忘れられていった。

何故か、ごく
最近「きよしのドドンパ」が出ている。

 http://ameblo.jp/tokumaru221/ 

次回からamebloの「クーサンのブログ」に引っ越しますアクセスして下さい。

 


ロッテ歌のアルバム

2010-02-18 19:37:15 | 日記

ロッテ歌のアルバムでお馴染みの名司会者、玉置宏が2月11日に亡くなった事をテレビのニュースで知った。

40年程前私は所属していたバンドで何度も同じステージに立った。

写真はその頃籍を置いていた、ノーカウンツ・オーケストラです。

この番組は幾つかのバンドが交代で受け持っていたので、移籍したゲイ・スターズでも度々出演した。

写真の横の記事に有るが、
ノーカウンツ・オーケストラと命名したのは歌手のアイ・ジョージだ。

カウントベイシー・をもじって付けたのだ。

名前と言えば、アイ・ジョージの本名は石松譲治

アイはsimatuの頭文字のIと譲治をカタカナで表記したのだ。

上の写真で大きなバリトンサックスを持っているのが若き日の私。

私の前でトランペットをもってしゃがんでいるのは高名なスタープレイヤー林鉄雄、隣のアルトサックスはクラリネットの鈴木章二の弟の鈴木正男、中央はリーダーの永尾公弘。

 アイ・ジョージはラテン曲を得意としている歌手なので、特にトランペットは高音もきれいに出る素晴らしいメンバー揃いだ。


プロバンドマン一年生の50年後

2010-02-17 14:41:05 | 日記
前回迄は約50年前を振り返って書いていたが。

今日は半世紀ほどタイムスリップして現在の話。

パイプコンサルタント、パブレストランの経営等を経て、今は一寸した小遣い稼ぎのアルバイトの合間に昔取った杵柄、バンド演奏を楽しんでいる。

掲載した写真はプロ廃業後20年間の演奏活動ブランクの後、10数年前に結成した社会人ビッグバンドです。

区の施設の音楽室で月二回練習、演奏を楽しんでいる。

メンバーは元プロミュージッシャンが殆どで一流バンドのOBが何人もいる。楽譜もプロのフルバンド用のアレンジが300曲程有ります。

メンバーの平均年齢は60才を超えているが、迫力、技術は健在だ。

バンド名はシャーロック・ホームズオーケストラ

私が2年前まで経営していた店の名前からつけた。

私個人的には、他にスタイルの違う三つのバンドに参加して楽しんでいる。

昔の話、パイプ、店の事、今に至る迄を、時には順不同で思い出すままに、綴っていくつもりだ。

天洋奇術

2010-02-08 14:15:59 | 日記

先日の土曜日、好きな番組である{ぶらり途中下車の旅}を見ていた。

地下鉄東西線の巻で旅人はマジシャンのマギー審司

東陽町で下車、寄りたい所があるとビルの中に、ここで人気の持ちネタの{大きくなる耳}を作ってもらったと言う。

株式会社天洋奇術だ。

50余り前、奇術の実演販売のアルバイトをしていた時の事務所の現在の本社ビルだ。

と言っても、以前は築地新富町にあった二階建ての家が、奇術師松旭斉天洋御大の自宅兼天洋奇術研究所だった。

大きなビル、広いオフィス、たった50年で社主一代で超急成長、びっくりだ!

私がいた頃は現社主も当時の専務も皆現場にでていた、前者は日本橋三越本店、専務は伊勢丹、引田天功は銀座三越、嶋田晴夫は浅草松屋、銀座松屋はの担当だった。

Mr,マリックも天洋の実演販売をしていたそうだ、私とは時代が違うので会ったことはない。

デパートの定休日には、新富町の事務所でネタと種明かしの説明書を箱詰めし紙テープをかけて、品名のシールを貼ったりの仕事もした。

天洋師匠、優しくて品がある奥様も一緒で家庭的な事務所だった。

半世紀も経った今でも忘れられないのは、この時働いていたお手伝いさんの作るソース焼きそば

私にとってだが、未だにあれより旨い焼きそばに出合ったことがない。

依ってあのお手伝いさんの名よしえさん、今でも覚えている。

掲載しているのは当時の名詞、住所は現在のものではない。

 


ショウボート

2010-02-05 10:00:47 | 日記

プロサックスプレイヤーとしての最初の現場、ショウボートは面白いシステムの店だ。

外観は名の通り船の丸窓が有り外輪船だ。

ドアーを開けると、いきなり銅鑼が鳴り響く、客の来店を店内に知らせる。

昔は船の出港の合図が銅鑼の音だった、マドロスドラ、古い流行歌の常套句だ。

客が三人だと三回叩く、来店人数だけ銅鑼を鳴らすのだ。

従業員の服装にも拘りがある。

まず客を迎えたり、従業員に指図をする、一般の店でチーフとかボーイ長に当たるのは、此処では
オフィサー.

白い海軍士官の服装に白いカバーのかかった制帽姿だ。

ウエイトレスはセ-
ラー服(女学生ではなくここでは水兵)でマリンガール

マリンちゃんと呼ばれ、背番号を付けていた。

ホステスの源氏名はサンフランシスコ、とか横須賀さんとか皆港の名ガついている。

が、なぜか鶯谷さんと山手線の駅名が源氏名の人もいた、港名が満杯だったのか?

さて、では経営者の社長はと言うと?

そうです厳めしい船長姿で、キャプテンと呼ばれる。

隣接する同系列の中華料理店の名は太鼓船

社長は船が好きなんですね。

戦後の銀座で一世を風靡した「ショーボート」は昭和45年に閉館。

1970年5月30日閉鎖中に火災で消失

今その場所には「リクルート」の立派なビルがその威容を誇っている。