今日は休日。朝から夫も娘もそれぞれ外出。私はこばらがすくと、冷蔵庫の残り物をつまむ。のどがかわくと、ほうじ茶をマグカップいっぱいに淹れて、ゆっくりとすする。家からは一歩も出ないで、ひたすらリビングでテレビをみて過ごす。ケーブルテレビで、現代版のシャーロック・ホームズを連続放映しているのを、飽きずにみる。本当に久しぶりに心身を休ませることができて、ありがたい。外出したくてもできない人を思うと、家から出なくてすみ、人間に煩わされなくですむのが、贅沢な休日。というのは、申し訳なく思う。それでも、今日与えられた、休める幸いを感謝したい。休める健康、休める家、休めるクーラー、休める食事、休める飲み物、私は休みでも働いている人がいる。本当に贅沢なデレンコディーだ。老朽化している心身にいたわりの栄養を補給することができた。なんにもしない日、万歳(*^_^*)
手作りのお菓子というと聞こえはいいが、ようはインスタントの材料だ。母は料理があまり得意ではなかった。でも子どもには、手作りのお菓子を食べさせたい。と思ったのだろう。暑い夏の日、市場から帰ると「ゼリー作ったげるよ」と何やら、台所でしはじめた。幼稚園から帰ったわたしは、飛びはねるように、台所に行き、母の手もとをのぞきこんだ。緑色の粉を水で溶いて、銀色の花型の容器にお玉で流し入れる。それを冷蔵庫で冷やし固めるだけのこと。それでも、わたしは、わくわくした。何度も冷蔵庫を開けては、母に「まだやから、待ちなさい」としかられた。
3時のおやつに、念願のゼリーをお皿にいれてスプーンをそえて、ちゃぶ台に出してくれた。目に鮮やかなグリーン。透きとおってプルプルふるえている。わたしは、こんな綺麗なお菓子は見たことがない。と、おとぎ話からでてきたように思って、飽きずに眺めていたことを覚えていり。残念ながら、味の記憶はない。ただ透きとおった緑色の美しい花型の固まりと、お皿にゼリーをのせる時の母の緊張した顔が、半世紀過ぎた今でも、わたしの夏の風物詩として、残っている。
3時のおやつに、念願のゼリーをお皿にいれてスプーンをそえて、ちゃぶ台に出してくれた。目に鮮やかなグリーン。透きとおってプルプルふるえている。わたしは、こんな綺麗なお菓子は見たことがない。と、おとぎ話からでてきたように思って、飽きずに眺めていたことを覚えていり。残念ながら、味の記憶はない。ただ透きとおった緑色の美しい花型の固まりと、お皿にゼリーをのせる時の母の緊張した顔が、半世紀過ぎた今でも、わたしの夏の風物詩として、残っている。
私はテレビを見る時間がないので、歌手も俳優も昔の人しか知りません。その知っている人も、次々亡くなります。映像で私が知っているだけで、あちらは私のことなど知らないけれど、こちらとしては、「顔見知り」が故人となっていくのに胸がしめつけられる思いがします。一斉を風靡しても、いつかは老い、衰える現実は、私の姿でもあります。私の場合は、一斉風靡する人生の勲章はなく、地味な人生でした。でも例外なく、役目を終える時がくるのです。それは、地味でも先が短いなどという思いがなかった頃と、全く違う感覚です。みじめとか、あわれとかではない、むしろ、ピリオドまで何ができるかな。と、過大も過小もしない目で、自分を正直にみようとする、誠実な時期が私の今の年かなと思います。若さを失ったように思いますが、静かに老けるのを、むしろ、ホッとする気持ちがあります。大食できるわけでもなく、孔雀のように着飾るつもりもないです。そんなつつましい、最期を迎えられたら、私は成功の人生と思います。