戦争こそ回答

仏に逢うては仏を殺せ。(中略)父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。~臨済録~

「非モテ」の論理

2016-06-30 15:12:04 | 余生
受験勉強のため、某予備校に通っている。しかし周囲の男子は平気で女子と話しているのに、なんで俺は話せないんだ。
畜生、いつか殺してやる。(元ネタがわからない方は小林源文をお読みになって下さい)
そういうわけで、「非モテの論理」を明らかにしておきたいと思う。
私は常に「非モテ」側の人間だったので、多分に「モテ」に対する
ルサンチマンに満ちた記事になると想像するが、どうぞお許し願いたい。




【一、モテ・非モテ】


①「モテる」とはどういう状態か

ある個人が異性(同性愛者の場合は同性)から受動的な形で恋慕されている状態をいう・・・というのが私の理解であり、また辞書的理解である。
その場合、受け手が相手に対しどのような感情をいだいているかは別の話であるとされている・・・はず。


②「モテない」とはどういう状態か

ある個人が受動的な形で異性または同性に好かれない状態。
「モテない」には能動的なアプローチで恋愛対象に接近しても一顧だにされない状態も含まれる。


②「モテ」「非モテ」とは何か

概念である。


③「俺は・私はモテる」「俺は・私はモテない」という感情は何か

観念である。


④性的感情や「体の関係」と「モテ」「非モテ」の関連

異論はあるかもしれないが、やはり不可分な関係だろう。
恋愛感情も性的感情もともに生物的本能であり、恋愛対象との精神的交流があるところ必ず肉体的交流が付随するものだ。


⑤恋愛・恋愛感情とは何か

これを定義するにおいてはラ・ロシュフコーですら苦闘した。ましてや私ごときにできるわけがない。
そこでやはりラ・ロシュフコーの言を借りよう。
「恋は心においては支配の情熱、知においては共感であり、
そして肉体においては、大いにもったいをつけて愛する人を所有しようとする、隠微な欲望にほかならない。」




【二、「モテる」「モテない」と人間】


①大前提 

「モテ」「非モテ」が万民にとって幸福あるいは不幸な状態であるのか。
「非モテ」が幸福だと感じる人もいるだろうし、「モテ」が不幸だと感じる人もいるだろう。
その逆転現象も起こりうるし、数でいえばそちらが主流だろう。
もちろん、そういった問題に対し無関心である人もいるだろう。


②主流派はなぜ「非モテ」を不幸と感じるのか

上で述べたように、恋愛対象との精神的・肉体的交流は本能である。
そうした心身のコミュニケーションを行うことのできない状態を、人間は不幸と感じるのである。


③「非モテ」を不幸と感じた人間はどうなるのか

もちろん「モテ」ることで幸福へと転じたいと願うようになるだろう。


④「非モテ」が「モテ」へと転ずることは可能であるか

「モテる」「モテない」という状況がいかなる条件で生み出されるのかを考察しなければならない。
個人の先天的・後天的能力なのか、個人に対する他者の作為が関係するのか、社会的状況の反映か、
はたまた人為の介入する余地のない、「見えざる手」による
(だとすると期せずして私の「戦争勃発の条件」論と同じである。ならば恋愛の端緒はすなわち戦争と同様ということになる)のか・・・。
「非モテ」がひとつの「階級」であるならば生来のものであり(古典的社会主義に則れば)変えようがないのであるが
(社会主義理論における「革命」は「非モテ」階級が「モテ」階級へと転換できるとは主張していない。念のため)
「非モテ」とは民族・人種・性別といった動かしがたい決定事項とは違い、ただの現象である。
ならばある一定の条件・状況のもとでの変革は、場合によっては可能であり、
「非モテ」が「モテ」へと転換することは十分にあり得る。
ただ確率論ではないし、いかなる条件・状況のもとで転換が発生するのかが不明なので、
具体的にどういった人物にそれが起こり得るのかはわからないというしかない。



【三、モテ・非モテの構造】

以下後ほど加筆しますのでお待ちください。


追記:いま思索を深める時間がないので記事完成は無期延期。











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