あひる町の住人~兼業画家ライフ~

兼業画家をしています。高知在住。にゃんず・釣りやギター・ハシビロコウネタ、など、悲喜こもごもの土佐日記です。

数学O点だった僕を理数系へと激変させた先生の話

2016年05月28日 | 【わたくしごと】
中学生までは数学が大の苦手だった僕は、ある先生のおかげで高校時代はまさかの理数系へと進むことになりました。

現在は残念ながら数字が不得意に戻っていますが(笑)、僕の将来のビジョンを持たせてくれたきっかけになったお話しです。



勉強に対して無気力な小学校・中学校時代





僕は小学校低学年の時、交通事故に遭い、それが元で病気を患い学校に行けない日々がありました。そんな僕に当時の担任の先生が病院に通ってくれて勉強を教えてくれました。その先生のおかげで勉強が遅れることもなく、学校に行けるようになりました。本当に感謝しています。


しかし小学校中学年から勉強をする意味がわからなくなり、やがて勉強をしなくなりました。遊んでばかりだったので言い訳かもしれませんが・・・(苦笑)。学校に行く動機づけはともだちと遊ぶことの他、「将来働くためには学校は行っておかないと」という漠然としたものでした。親からは「中学校を卒業したら働くんだ」と言われていました。学校には休まずまじめに行っていたものの、なりたい自分、目標や目的も持てないまま、授業中はノートや教科書に漫画ばかり描いていました。小学生はそんなものでしょうが、周囲は皆、大学へ進学するのが当たり前の時代でしたから、それを飛び越えて「社会に出る」ということはそれなりにプレッシャーもあったと思います。

僕には決定的に足りないものがありました。それは『相談をすること』でした。誰にも悩みや不安を話すことができませんでした。小学校高学年ともなると周囲はいつの間にか何か目標を持って私立に進学したり、なりたい将来を卒業アルバムに書いていたりと自分は出遅れた感でいっぱいになりました。いつのまにか皆はビジョンを持っていたことに驚きました。「僕は何者になるのだろう」と不安を抱えながら、マンガ好きの僕は「将来漫画家になる」と適当に考えていました。コロコロコミックで頭の中がいっぱいだったと思います。安易すぎますね(笑)

中学生になっても相変わらず勉強をしない子供でした。視野も狭く、何をしていいかわからない僕は、先生に相談するということも考えることもないまま日々が過ぎていきました。誘われて始めてみたクラブ活動もすぐに辞めてしまいました。そしてすべてに無気力の塊みたいになってしまいました。やがて中学3年になると無理矢理にも進路を極めなければなりません。当時は既に中学校卒業くらいでは就職は皆無でした。僕が行ける高校は学力ゼロのためありません。僕は焦りました。そして中3から鬼のように勉強し、親には「高校を卒業しなければ仕事はない」と説得しました。きっと僕がした初めての『相談事』でしょう。なんとか学力、偏差値を最低水準にまで上げて一番学費の安い私立高校に入学しました。それでも金銭的にかなり厳しかったのは解っていましたから、親には感謝しています。

中学3年生のある日、たまたま行った友人の家にあったガットギターに触れました。無気力だった僕が初めて「何かをやりたい!」と思った瞬間に出会えました。それが今も趣味で演奏しているギターにつながっています。ただしそれは将来を決定づける動機となることはありませんでした。

数学が苦手な僕を激変させた先生との出会い




何も将来のことを考えなかったけれど就職のために入学した高校でした。そこで素晴らしい数学のI先生という方に出会いました。若くて情熱が全身からみなぎるような先生でした。
僕は数学は一番苦手で、受験勉強も数学は棄てていたくらいでした。そんな僕をI先生は変えてしまいました。中学生まで0点に近いテストの点数が、授業を受けて数か月で100点を取るまでになったからです。まさに「褒め言葉のシャワー」を実戦している数学の先生だったのです。

一般的に授業は、先生が(学校が)決めたことを予定通り進めてテストして評価の繰返しだと思いますが、I先生はまったく違いました。問題や式をクラス全員が理解して解かないと先に進まなかったのです。「○○君は解るだろ、解ってないクマ君に教えてやれ」などと言いながら和やかに授業を進めます。クラスの友達に聞くことは悔しいとはなぜか思わず、相談できる空気でした。「わからないものはわからない」と言えたのです。そして問題が解けたら松岡修造ばりに誉めてくれます。もちろん教えた生徒にも問題を解いた僕にもです。さらに先生は授業が終わってもわからないことがあれば付き合って教えてくれました。相談ベタの僕にも話せる空気感があったのです。先生と話せないときはクラスの誰かに教えてもらったり確認したりすることが楽しかったのです。

そんなキッカケもあり、「高校は最後の学生生活。勉強も遊びもできることすべてやってみよう」という気持ちになり、クラブ活動、バンドを作って演奏したりと活動的になり、青春を謳歌したのです。それでも自分はやりたいことがみつかりませんでしたが・・・。



「おまえは何がしたいんだ」という問いかけ




高校2年の進級の時、理系・文系・商業系とクラス分けをすることになり、I先生に進路を相談しました。
いろいろ掛け持ちをしていた僕には都合がよかったのは授業数が少ない文系でしたが・・・決められなかったのです。

僕「先生、僕はどのクラスに行けばよいでしょうか?」

I先生「おまえは何がしたいんだ?」

僕「はっきりとはしてませんが、何かデザインを考えたりモノを作ったり・・・ですかねぇ・・・音楽もやっていますが、よくわかりません。」

I先生「これからはいろんな物事がコンピュータ化していく。それらをやりたいならおまえは理数系だ。」

1982年当時は、まだパソコンはMACも無くウィンドウズもありません。僕は「コンピュータなんて近未来SFの世界」と思っていました(笑)しかし数学を勉強すればいずれは役に立つのだなとなんとなく思い、理数系に進むことを決めました。I先生は僕にビジョンを持たせてくれたのです。

その後、理数系に行き、とたんに難しい数学の授業に変わりました。I先生の授業は1年生で終わっており、大変な思いをしました。しかし2年からの担任の先生も気さくな数学の先生だったのでいろいろと相談したり補習に出席するなどしてなんとか卒業できました。

あの「数学が苦手」だった僕が「理数系」で卒業できるとは思ってもみませんでした。

やがてI先生の言ったとおり、10年後僕はPCを使ってモノ作りをすることになりました。会社内でPCを使った加工に変わる時、誰よりも早くその作業を行うことができたのです。




卒業して20年・・・職場に僕の後輩が入社してました。
僕はI先生のことが気になっていたので、まだ学校に在籍しているか聞いてみました。
「クマさんもその先生知っているんすか!?僕もすごくお世話になって、卒業した今も一緒に飲みに行ったりしてますよ!!あんなすごい先生いませんよね!!」
大興奮で話してくれた後輩でした。変わらずに熱い先生のままご健在だったので嬉しかったですね。

その後、気になって僕の通っていた学校のHPを見てみると、偏差値が考えられないくらい上がっていてびっくりしました。2年3年で担任していただいてた恩師は教頭先生になっており、僕が所属していたクラブの顧問は校長先生になっていました。僕は先生に恵まれていたんですねぇ。妹や姪にも「お兄ちゃん、頭の良い学校に行ってたんだね、びっくり!」と言われました。いやいやいや・・・当時は偏差値は最低ランク、ビーパップハイスクールでしたよ(笑)校則が厳しい学校でしたが、楽しかった思い出しかありませんね。



こうして振り返ってみると、高校時代に「苦手意識を持つことはもったいない」と思い、なんでも「とりあえずやってみよう」というチャレンジ精神が育まれました。結果はどうあれ、やってみることが大切ですよね。とかいって、僕は相変わらず愚痴が多いですが・・・(笑)

高校時代は先生も友人もいい出会いがあり、今でも大切にしています。僕の今日があるのは先生方のおかげなのは言うまでもありません。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« なぜ勉強するのか~将来のビジ... | トップ | 土佐の人気シャフ集合♪アペリ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿