なんか春めいてきた途端に
厨房が多くなりました。。。。。。。。
はっきり言って鬱陶しいです!!!
何にもしないのに三好町最大のショッピングセンタージャスコに何時間もウダウダして、
この春の突風と一緒に吹っ飛んじまえ!!
と、思うのは
わたくしめだけでしょうか。。。。。。。。。。
・“教会の絶対者”断罪 信者少女暴行判決
毎週ちゃんと教会に行っている人間が
こんなことを言うと大いに御幣があると思うけど、
教役者はいつもこのような誘惑に晒されていると思う。
こんなことを言うと
「だから宗教は信じられないんだ!」という言葉が返ってきそうではあるが、
そうではない。
普通に生活していると何気ないことなのだが
ある特定の、
特に宗教団体のような密接な人間関係に係わる場合は特に、
人と人とのかかわりを身近に感じやすく
見た目での成功者ほど、
数字の上で成功している人ほど
その誘惑に晒されていると思う。
そのひとつの例が
ジミー・スワガートだと思う。
今回の人は、
報道記事がすべて信頼に値するものであると仮定した場合、
最初から「キリスト教」で儲けて「キリスト教」で大成するつもりだったようなので、
↑で言った教役者が立たされる誘惑の場面には遭遇しないと思うけど、
本来、
宗教での成功と、実数での成功は、必ずしも比例しない
ものであるはずなのです。
一般的に「キリスト教」の創始者と言われる(本当は違うけど)イエス・キリストは
十字架刑に掛けられるときに、いたはずの12人の側近のほとんどは散り散りバラバラ、
その中でも1人が「金で師匠を売った」のは有名な話です。
というように、
この世の数字的に見れば、
最低な状態だったわけです。
今の時代の新興宗教だとしたら、最低すぎて、まぁ10年ももたなかったでしょう。
でもね、
これが本来の「信じるもの」だと思うんです。
それを「見た目」で人間は判断しがちだと思うのです
それは「ビジネス(経済)」であって、「信じるもの」ではない
と思うのです。
(そういった意味では「大○○法」さんの「宗教」は、元々自己啓発セミナーから始まったものですから
完全に「ビジネス」になるわけで、まぁ、それだったら
東京ドームで催しやっても「やっぱりなぁ~」な、訳です)
そこのところを勘違いする人は、
いくらでもいるわけで。
元来、宗教においては、
自分が、特に指導者が
神と等しい立場にあると言うのは
タブーになるはず、
なんですが、
先程の理論で言うと、見た目での成功者ほど「宗教的に」成功したものだと勘違いを起こしやすく、
無意識のうちに、自分を神に近い存在に置き換えてしまう
可能性があるわけです。
(まぁ、↑の「大○○法」さんや韓国の「統一教会」は自分が神だって言っているのだからいいんだけど(放って置くという意味))
で、
集団内での権力を一手に握り、思うが侭に人を操り、人の扱いを平気でするようになり、
特に、強い集団であればあるほど
宗教と言う、(言わば)マインドコントロール状態を駆使できるために、普通よりたちが悪くなるわけで、
その際たるものが「人民寺院」だと思う。
(だから、自分が神であるといっている宗教が、何をやってもよいと言うわけではない。
どんな悪法であろうともこの世の法に従う義務は残る)
ジミー・スワガートは、
テレビ伝道者としてものすごい成功者でした。
全米で何百人もの前で彼のメッセージが放映され、
その勢いで、日本でも放映されていました。
しかし、その彼は性的なスキャンダルで
彼の「見た目での」大成功が足元から崩れ落ちていったのでした。
本当の意味で人の心に接する、
本当の意味で「信じる」ものを信じると言うのは
そういうことのはずなのですが、
それは、
世的には厳しいですねぇ(金銭的に。。。。。。)
で、どうしても「数字」を追い求めてしまう。。。。。
もうひとつ、
気になったのが
>「聖書の言葉の通り人は人を裁かない」として、教会として事件の真相を究明する考えはないという。
という件。
聖書には確かに、
「右の頬を打たれたら左の頬を向けろ」だとか、
「汝の敵を愛せ」だとか、
「いつも愛しなさい」といったような記事がいっぱい書いてあるけど、
人を裁くことに関しも
ちゃんと、そして厳しくするようにと載っている。
例えば今回のような不祥事に対しては
「この世の法(一般的な裁判)で裁くのではなく、まず教会内で片付けるように」と聖書には書いてあるの
です。(コリント人への手紙第1書というところで)
教会が教会の中のことを裁けないと言うのは
教会の意識が「神」よりも「人」(今回の場合で言うと永田と言う牧師)を中心として動いている
と言うことの象徴だと思う。
先程も言ったように
キリスト教は絶対的な「神」を中心とする「信じる」共同体であるはずなのに、
中心なのは「神」でなく「人」 になっているわけで、
そういった意味ではこの団体は
もはやキリスト教ではない訳です。
もし、
組織が残っていたとしても、
「体」はないわけで。
厨房が多くなりました。。。。。。。。
はっきり言って鬱陶しいです!!!
何にもしないのに三好町最大のショッピングセンタージャスコに何時間もウダウダして、
この春の突風と一緒に吹っ飛んじまえ!!
と、思うのは
わたくしめだけでしょうか。。。。。。。。。。
・“教会の絶対者”断罪 信者少女暴行判決
これまでの公判で永田被告は、性的暴行の具体的な状況について話が及ぶと、「(被害少女)本人と私と神が知っていることで語りたくない」などと述べ、はぐらかし続けた。
≪礼拝者、支部激減 真相究明せず≫
永田保被告が逮捕されて約十カ月。事件の舞台となった京都府八幡市の宗教法人「聖神中央教会」本部は主不在となり、土地・建物は被害者への損害賠償に充てるため売却され、今は更地になっている。
同教会によると、旧本部近くの教会関連施設を本部として活動を続けており、現在も五十-六十人が礼拝に参加している。しかし、最盛期には約二百人が集まっていたといい、事件は信者らの間に影を落としている。
「以前は頻繁に信者の行き来があったが、今はぱったりとなくなった。礼拝の音楽が聞こえることもない」と、近くにあるガソリンスタンドの女性店員(22)は話す。
事件が表面化する以前から、各地に二十以上あったとされる支部は次々と同教会を離れ、現在は滋賀、岡山、鳥取の三県に計四支部があるだけ。それでも同教会の代表を務める西山務牧師は「教会を必要とする人がいるので、活動していく」と力を込める。
永田被告について、「聖書の言葉の通り人は人を裁かない」として、教会として事件の真相を究明する考えはないという。
毎週ちゃんと教会に行っている人間が
こんなことを言うと大いに御幣があると思うけど、
教役者はいつもこのような誘惑に晒されていると思う。
こんなことを言うと
「だから宗教は信じられないんだ!」という言葉が返ってきそうではあるが、
そうではない。
普通に生活していると何気ないことなのだが
ある特定の、
特に宗教団体のような密接な人間関係に係わる場合は特に、
人と人とのかかわりを身近に感じやすく
見た目での成功者ほど、
数字の上で成功している人ほど
その誘惑に晒されていると思う。
そのひとつの例が
ジミー・スワガートだと思う。
今回の人は、
報道記事がすべて信頼に値するものであると仮定した場合、
最初から「キリスト教」で儲けて「キリスト教」で大成するつもりだったようなので、
↑で言った教役者が立たされる誘惑の場面には遭遇しないと思うけど、
本来、
宗教での成功と、実数での成功は、必ずしも比例しない
ものであるはずなのです。
一般的に「キリスト教」の創始者と言われる(本当は違うけど)イエス・キリストは
十字架刑に掛けられるときに、いたはずの12人の側近のほとんどは散り散りバラバラ、
その中でも1人が「金で師匠を売った」のは有名な話です。
というように、
この世の数字的に見れば、
最低な状態だったわけです。
今の時代の新興宗教だとしたら、最低すぎて、まぁ10年ももたなかったでしょう。
でもね、
これが本来の「信じるもの」だと思うんです。
それを「見た目」で人間は判断しがちだと思うのです
それは「ビジネス(経済)」であって、「信じるもの」ではない
と思うのです。
(そういった意味では「大○○法」さんの「宗教」は、元々自己啓発セミナーから始まったものですから
完全に「ビジネス」になるわけで、まぁ、それだったら
東京ドームで催しやっても「やっぱりなぁ~」な、訳です)
そこのところを勘違いする人は、
いくらでもいるわけで。
元来、宗教においては、
自分が、特に指導者が
神と等しい立場にあると言うのは
タブーになるはず、
なんですが、
先程の理論で言うと、見た目での成功者ほど「宗教的に」成功したものだと勘違いを起こしやすく、
無意識のうちに、自分を神に近い存在に置き換えてしまう
可能性があるわけです。
(まぁ、↑の「大○○法」さんや韓国の「統一教会」は自分が神だって言っているのだからいいんだけど(放って置くという意味))
で、
集団内での権力を一手に握り、思うが侭に人を操り、人の扱いを平気でするようになり、
特に、強い集団であればあるほど
宗教と言う、(言わば)マインドコントロール状態を駆使できるために、普通よりたちが悪くなるわけで、
その際たるものが「人民寺院」だと思う。
(だから、自分が神であるといっている宗教が、何をやってもよいと言うわけではない。
どんな悪法であろうともこの世の法に従う義務は残る)
ジミー・スワガートは、
テレビ伝道者としてものすごい成功者でした。
全米で何百人もの前で彼のメッセージが放映され、
その勢いで、日本でも放映されていました。
しかし、その彼は性的なスキャンダルで
彼の「見た目での」大成功が足元から崩れ落ちていったのでした。
本当の意味で人の心に接する、
本当の意味で「信じる」ものを信じると言うのは
そういうことのはずなのですが、
それは、
世的には厳しいですねぇ(金銭的に。。。。。。)
で、どうしても「数字」を追い求めてしまう。。。。。
もうひとつ、
気になったのが
>「聖書の言葉の通り人は人を裁かない」として、教会として事件の真相を究明する考えはないという。
という件。
聖書には確かに、
「右の頬を打たれたら左の頬を向けろ」だとか、
「汝の敵を愛せ」だとか、
「いつも愛しなさい」といったような記事がいっぱい書いてあるけど、
人を裁くことに関しも
ちゃんと、そして厳しくするようにと載っている。
例えば今回のような不祥事に対しては
「この世の法(一般的な裁判)で裁くのではなく、まず教会内で片付けるように」と聖書には書いてあるの
です。(コリント人への手紙第1書というところで)
教会が教会の中のことを裁けないと言うのは
教会の意識が「神」よりも「人」(今回の場合で言うと永田と言う牧師)を中心として動いている
と言うことの象徴だと思う。
先程も言ったように
キリスト教は絶対的な「神」を中心とする「信じる」共同体であるはずなのに、
中心なのは「神」でなく「人」 になっているわけで、
そういった意味ではこの団体は
もはやキリスト教ではない訳です。
もし、
組織が残っていたとしても、
「体」はないわけで。
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